コロナと人格

おはようございます。今週も書いていきます。

コロナの影響で、家にいる時間が、長くなった人も多いだろう。きょうは、家に長くいることで起きる事態と、その対処の仕方について、書いていく。

先日「コロナ離婚」というキーワードがTwitterのトレンドにあがっていた。いわゆるパワーワードを、誰かがまた開発して、流布したのかと思ったが、深刻に考える必要がありそうだった。限られた一つの場所に居続けるのは、人格と人間関係に大きな影響を及ぼす。

小説家の平野啓一郎の著書に、『私とは何か――「個人」から「分人」へ』というのがある。これまでも何度か紹介したが、人は「私」というものを、唯一無二の存在(=個人)として捉えがちだが、実は「私」は、関わる人によって使い分けられている存在(=分人)である、という主張だ。

SNSが隆盛する現代において、この考え方は、非常に納得しやすいと思う。ではその「分人」と「コロナ離婚」に、どういう繋がりがあるのだろうか。

私たちは生きる上で「分人」のポートフォリオをつくっている。たとえば、中学時代の友人に接する「私」と、社会に出てから親しくなった人に接する「私」は同じではない。私たちは異なる複数の「私」を包含しているのだ。

これを家に置き換えると、家にいる「私」と、会社(または其他の場所)にいる「私」は、異なっている。私たちは状況に応じて、この2つの「私」を使い分けている。同僚としかできない話、家族にしか言えない話というのが誰しもにあるだろう。

しかし今回のように、外的な要因によって、「分人」が使えなくなるとき、私たちは異なる人格の出し先を、失ってしまう。これが、「コロナ離婚」の引き金である。話したいことを話せなくなったり、逆に、言いたくない話を思わず出してしまうことで、関係に亀裂が入りやすいのだ。

対処の仕方として、人格の出し先を確保する、というのがある。それは一日1回のLINEでもよいだろうし、Twitterやnoteでもよいだろう。別の「私」を腐らせないのである。物理的に人格が一つに追いこまれやすいので、それを解放する必要がある。

未来、このまま「私」は発散していくのだと考えていたが、思わぬ形で収束となった。もしくは精神的な「分人」の持ちかたを、教えてくれる機会なのかもしれない。いずれにせよ、ポートフォリオを見直す必要があるだろう。

今週も読んでくださって、ありがとうございました。よい一週間をおすごしください。


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