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一語

おはようございます。きょうも書いていきます。

海外から移り住んだ友人とひさしぶりに会って、来日した当初よりも日本語が拙くなったことに寂しさを感じる。こちらで気の合う同郷の士でもできたのだろうか。

言葉は入れかわっている。毎日ほんの少しずつ覚え、少しずつ忘れている。周囲の言語に合わさっていくのだ。もちろんそれは自然の成り行きである。

外国語というと僕らはその変化を微細に感じることができる。しかしそうではない言葉、たとえば、親から子どもへの言葉、教師から生徒への言葉、強くない者への言葉となると、どうだろうか。気づかぬうちに、言葉が入れかわってはいないか。

忙しいとつい、本来の言葉を忘れてしまう。勢いにかまけて、記号のような言葉を使ってしまう。それはそれで伝わっているのだからいいではないか、という意見もあるかとは思うが、言葉は口にしてからではなく、出す前からその務めが決まっているのである。

もし何も深く考えずに、反応的反射的に言葉を投げかけていれば、それは相手にもそう届くだろう。発言にする前の思考が、反映されているのである。さらにいえば思考は精神ともいえる。

誰とどのように付き合っても、それはその人の自由である。ピンポンのように言葉の往来を楽しむのもまた一つだ。一方で誰と付き合おうが、必ず自分の言語に影響があるということを、忘れてはならない。辿れば、自身の精神に行き着くだろう。

そう考えると、言葉は一種のペースメーカーや、体温計のような機器ともいえる。もし言葉が拙くなっているのなら、精神が離れているからかもしれない。反応的になっているのなら、練れていないのかもしれない。意図せずに出るものは正直だ。

様々な人達と、様々な言語で会話できるというのも、ある種の豊かさではないか。一語を丁寧に、相手とのあいだに、置きたいものである。

今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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