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矢印

おはようございます。今週も書いていきます。

みんなでとか、みんなでなかよく、という表現が嫌いだ。融合を好む人に、苦手意識を感じる。一方で、共同体とか相互補完関係のような言い回しに、一応の重要さを感じるのはなぜだろうか。他人と自分の関係とは、どういう状態が僕にとって理想なのか、考えてみたい。

ここに矢印があるとする。その矢印が自分から相手に向かって伸びている、もしくは相手から自分に向かって伸びている、これが嫌いだ。別に自分は、相手に対して何かしたいわけではない。また相手にも何かしてほしくない。

ではその矢印を、自分から相手ではない、違う方に向けるとどうだろうか。その先は何でもいい。対象物が存在しても、しなくてもいい。すると一瞬、相手の存在を忘れそうになる。しかし、考えてみれば、相手は消えていないことに気がつく。(いるのは、横か後ろか、近くか遠くかは分からない。)

この矢印が、同じ方(全く同じではない)を指しているのが組織であるし、違う方でもよいのが家や地域なのではないだろうか。ここで言いたいのは、組織と家の違いの話ではなく、いずれにせよ、矢印はお互いを指し合ってはいない、ということだ。

本来、人の持つ矢印は、他人に向かうものではない。大層なものである必要はなく、極端を言えば、無いといえるほど短いものでもいい。冒頭で述べた共同体や相互補完関係というのは、矢印が同じ、もしくは違う方向を指していながらも、同じ場所にいる状態を示す。(漫画『ONE PIECE』の乗組員のことを思い出してほしい。)

では、なぜ同じ場所にいるのか、という疑問が湧くだろう。これには、別に同じ場所にいなくてもいい、というのが僕の答えだ。そもそも家や地域は、生まれてからしばらくのあいだは選べない。組織なら常に同じ場所にいる、同じことをやり続ける必要はない。

つまり、みんなや、他人と自分、というのは目的や最終形態にはなりえないのだ。ただの一時的な、状態でしかない。そこに囚われるのが、僕の嫌悪の正体だったのである。

自分の矢印を行く道中で、他人の矢印と交わることがあるならそれもいい。しかし決して、その矢印が、他人に向かうことはない。みんなでいるときもあった、くらいなのだ。

今週も読んでくださって、ありがとうございました。よい一週間をおすごしください。

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