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仲間の音

おはようございます。きょうも書いていきます。

新しい環境になると、耳がとがる。パソコンのキーをパチパチとたたく音、スマホを机にゴトッと置く音、気を張っているからか、感覚が鋭敏になってどれも鬱陶しく思えてしまう。誰しもが邪魔をしてくるかのような、なにかただならぬメッセージを送ってきているような気がする。なに食わぬ顔で。

しかしやがて時間が経つと、その音は消えている。正確には鳴っているが、いくぶんか流せる、消化できるようになるのだ。敵意など、最初からない。ただの生活音である。そのことに気づくのに、どうして時間がかかるのか。

以前に「仲間の音は気にならない。」という話を聞いた。近隣の騒音問題が取り沙汰されるようになったのも、「仲間意識」が欠乏していることが原因なのだそうだ。核家族化して、マンション世帯が増えて、ご近所付き合いが減ったことで、「仲間意識」は徐々に損なわれていった。

仲間でなくなった途端、その音は騒音に変わる。その感覚は通勤電車内でも味わうことができるだろう。知らない人は不快なのだ。この傾向は、今後も強まっていく。

翻ってネットの「仲間意識」はどうか。こちらは前述と逆行していそうだ。毎日タイムラインを流れる大小さまざまな発言を、受け流せるようになっている。「仲間」の言うことなら許せる。「仲間」が言うからアゲておこう。やや贔屓が過ぎるようにも感じる。

この二つの事象を俯瞰して思うのが、本来「仲間」とはランダムで選ばれた相手との関係構築を指すのではないか、ということだ。動詞的ともいえる。

ご近所さんも、仕事の同僚も、多くの場合において相手は選べない。しかしながら、環境に適応する場合には、関係構築を促す必要がある。このとき、手段としての「仲間」が存在する。お互いに、過度に反応しないためにも、「仲間(になる)」という技術が要る。

「仲間」を名詞的に捉え、状態だと思っているうちは、いつも不快だろう。踏みこむ必要がある。足が停まったり、すくむときもある。しかし、相手の範疇に入るのだ。でないといつまでも名詞の「仲間」を探し、彷徨うことになる。近いほうが静かではないか。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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