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体験

おはようございます。きょうも書いていきます。

昨晩、人と話してよいことを聞いた。曰く、知識があって、体験して、体現できるという。これがリズミカルな感じもして、気に入った。このことについて考える。

体験は知識の反対にある。知識は計画的で合理的で意図的で能動的である。体験は突発的で非条理で受動的である。なので知識があっても体験がかなわず、体現まで辿りつかない場合が多いのである。これはなんとなく想像しやすいのではないか。自身を動かす強烈な体験というのは、いつも予定調和の外側からやってくる。

宮台真司の言う「感染」の話にも近いと思った。また彼の「アートは傷をつける」という表現にも共通する。体験とは、偶発的に何かに出会って、自身に伝染する、ないしは傷つけられることを指すのではないか。そしてこの状況は、現代の社会において、最も警戒されていることの一つであろう。

つまり知識は圧倒的に溢れていて、所有している人も少なくないが、体験を持っている人は少ないのだ。なぜなら体験は、安全圏にいては享受することが難しいからである。僕らはどこまでいってもフェンスで囲った中でのプロレスをやっている。コンプライアンスという言葉も、いまでは警察から泥棒に変わってしまっている。

非人道的な行為や非倫理的な状況を肯定するわけではない。しかしながら、体験はそういう場所にばかり埋まっている。いくら安全圏で訓練を積み重ねたところで、実戦はまた別次元のところにあり、奪うか奪われるかの瀬戸際では、脆くも散ってしまうのである。

こうして外の世界に出ることを望まず、檻の中のごっこで終わってしまったなら、それはゲームで遊んでいましたという感想と、何が違うのだろうか。もしくは既に人生はゲーム化しており、誰か(もしくはみんな)によって、プログラミングされきってしまったか。(もしくは初めからされていたか)

これもまた平和惚けなのだろうか。

今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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