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ではない何か

おはようございます。きょうも書いていきます。

2010年代は「何者」や「推し」という言葉が、流行していたように感じる。これは「何者かになりたい」「私の推しは」のように、自らを抽象化する、もしくは自分とは別の具体的な事物に、自らの人格を重ねる行為であると、僕は認識している。

たとえばTwitterのプロフィール欄に「○○ニスト」とか「○○屋」の様な表現を入れる人が少なくなかった。これは「何者」であるかを規定することで、自らを抽象化している。また「××好き」「××推し」という表現も、具体的な自分以外の対象を挙げることで、自らの人格を主張するという手法である。

ここに共通して表れるのは、あくまで「自分ではない」ということである。なにか別の、フワッとした対象であったり、もしくは完全なる他人に自らを託すことが、重要だったのだ。間接的に自分を表現する、というと耳障りはいいが、その背景に何があったのかを考えてみたい。

まずはじめに、個人の台頭、が挙げられるだろう。「個人」「個性」「個」といったように、猫も杓子も「個」を求められる時代であった(今も尚)。一方で「個なんて急に言われても」といった具合に、多くの人はその唐突な押しつけとも感じる変化に、困惑したのではないか。

また、ストレスからの解放も挙がる。当然どの時代にもストレスはあるが、物理的な充足は満たされて、より精神的な充足が求められるようになった。物がないときの方が、楽だったのだ。一軒家に住む自分とか、ベンツに乗る自分は、「個」を探しに行く必要が無い。

つまり、大衆の中に紛れることや、物理的な充足で心を満たすことが難しくなって、一気に「何者」や「推し」化が進んだ。進まざるをえなくなった、のではないだろうか。

理想を言えば、物理、精神、具体、抽象に関わらず、何かに自らを重ねるのは避けたい。どの方向に行こうと、「自分ではない」のに、違いはないからである。だが一方で、それが拠り所となって、癒しを与えてくれるのも理解できる。最後の一片まで、消えてしまわないことを願う。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をお過ごしください。


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