やかましいわ
おはようございます。きょうも書いていきます。
年末、地元に帰って、友人たちと会った。新宿駅から下る電車に乗る。西へ近づくにつれ、車内の様相が変わる、というのは、おさないころ、耳障りに感じた、母のぼやきである。それをいまの歳になって、自分も感じるようになった。
駅前の居酒屋で、同級生と卓を囲む。店内にはタバコの煙が充満している。こっちは分煙もまだかよ、と思う。隣の客がうるさい。注意すると、少しの間だけ静かになり、やがてまた戻った。公立の学校にいた頃の記憶が蘇る。そういう場所なのだ。
苛立つ僕に、友人が「まあいんじゃん?」と言った。まあいんじゃん、か、と胸の裡でつぶやく。まあいんじゃん、まあいんじゃん、そういえば年末の特番で見た(正確にはそのあとネットで見た)、あるお笑い芸人の特徴は、まあいんじゃん、だった。いろいろ気になるけれども、まあいんじゃん?
年明けに、それを多様性の受け容れだとした記事が、SNS上で流れていた。世の中いろんな奴がいる。それにいちいち目くじらを立てていてはこちらがもたない。ツッコムところをあえて流そう。ま、あなたがそうなら、それはそれで、まあいんじゃん?といった具合である。
それを新しいとか、優しいと褒めそやす人たちがいる。でも、本当にそれでいいのだろうかと思う。いま社会は、多様性を帯びてきたようで、むしろ、画一的になってないだろうか。個々に光を当てることが面倒になってきて、もはや「その他全般」として、括ってはいまいか。
「ツッコミ」が配慮されるということは、「ボケ」が回避されていることにならないだろうか。尖る相手に優しくなったのではなく、丸くなる自分らを見過ごすようになったのではないか。それが前述の「まあいんじゃん?」と繋がる。
時代の空気に合っていると言われたら、それまでだろう。しかし、このまま優しく丸くなっていく僕らを、僕らは許せるだろうか。やかましい隣客も、山の賑わいであったことに気がつく。
きょうも読んでくださってありがとうございました。今年もよろしくお願いします。
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