「先」の価値
おはようございます。きょうも書いていきます。
「先生」や「先輩」といった言葉には甘美な響きが備わっている。もし自分が女学生だったなら、という妄想はさておき、ではその「先」に何があるのか、あったのかを、今日は考えていきたい。
「先生」の語源は知らないが、おそらくは「先に生まれた」とか「先に生徒だった」など、対象者より「先」であったことを表しているのだろう。「先輩」も同じく。「先」の者を敬ったり、憧れを抱いたりするDNAが、僕らの身体にはある。
もう気配を察しているかもしれないが、ではその「先」であることが現代においてどれほど価値があるのか、また変化しているのかが、今回の論点だ。「先」に生まれて経験すると何がよいのか。
一つは、軍隊式や学校教育を挙げざるをえない。大量生産をする過程において「先」であるというのは、ベルトコンベアの「先」に乗っているのと同様、「完成形に近い」ということだったのだ。正解やゴールのあった時代の考え方である。
では他にはどうか。「先」に生まれたから、多くを経験している、というのも挙げられるだろう。経験値が積まれているというのは、敬意を集める理由として十分だろうか。これは、内容による。単純にたくさんのものを見てきたとか、ただ触れてきただけというのでは、心細い。
正解やゴールに近いとか、単に経験を積んでいるというのは「先」の価値ではない。「先」の価値とは「失敗を示したか」だ。フグを最初に食べた人はえらい。たぶん死んだ。だが後続の者たちに「失敗を示した」おかげで、フグ料理がある。
つまり「先に生まれた」ことは、「先に失敗する機を得た」ことでしかないのだ。そして「先」の価値が「失敗を示すこと」ならば歳は関係ない。「先輩しっかりしてくださいよ」改め「しっかり先敗してくださいよ」ではどうか。
きょうも読んでくださってありがとうございました。よい一日を、おすごしください。
サポートありがとうございます。