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日常

おはようございます。きょうも書いていきます。

上田に娘たちと帰っている。この春に亡くなった祖母のお墓参りと、祖父を元気づけようというのが目的だ。だけど、人の死は驚くほど当たり前に過ぎていく。前回に、お葬式で帰ってきたときとはちがう、祖母の死というのがもう日常の基礎に染み渡っている、という感覚がある。線香をあげるときもいつもと変わらない自分に気がつく。

たまに人の関係はネットワークでプログラムなんじゃないかと思う。偶然に祖母と僕はネットワークでつながっていた。近いところにプログラムされていた。だがそれが何らかの形で消えると、ネットワークも書き換えられる。そしてまた滞りなく「日常」というプログラムが動作を再開する。そこに、感情というのは存在するようで、実はあまりしていない。

人の生き死には、一瞬だけCPUが使用されて、マシンが熱くなるようなものではないか。感情も等しく、である。確かにそこいたり、あったのだけど、消えてなくなってしまえば、それはそれで同じように動作する。その瞬間は絶望的だったり破滅的でも、意外とそんなことはない。頑丈にできている。

その全体感のなかで、生まれて、出会い、別れ、死ぬ、を繰り返していると考えると、虚無感のようなものも感じなくはないけど、まぁしょうがないかという気になってくる。つつがなく日々は過ぎていく。何があったとしても「日常」の範疇に戻ってくる。

そういった強いプログラミングが、自分たちの中、あるいは外で、行われているのではないか。そして僕らはそのプログラミングに、何度も大いに救われている。

何かの障害が起きて、無限ループに嵌まってしまったり、うまく動作を再開できない、ということもあるだろう。それでも、バグさえ取り除けば必ず、元の状態に復旧できる。その安心や安全は、なぜか、担保されているのだ。「日常」はよくできている。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

サポートありがとうございます。