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動物の声

おはようございます。きょうも書いていきます。

「エモい」や「モヤモヤ」が、セイウチの咆哮やオットセイの求愛の声に、聞こえたことは無いだろうか。ちなみに、僕は元の声を聞いたことがない。しかし、聞こえるのだ。「エモくない?」や「モヤっとする」を連呼する人の前に立つと、これは動物の鳴き声ではないか、と感じる。

言葉は、その時々の人たちが持つ感情や感覚に、名前をつけた証だ。すでにわかっている感情や感覚には名前がついている。もうすこし詳しく話せば、わからないからこそ、それに一定の形を与えることで、わかるような感覚に陥らせるのが、言葉の最終的な目的である。

しかしながら、冒頭で出した「エモい」や「モヤモヤ」は、紛い物であると僕は感じる。そもそもこの言葉は、実態を伴っていない。「エモい」瞬間も「モヤモヤ」しているときも、一向に頭の中に、浮かんでこないのである。それはなぜだろうか。

文明が発展した国や地域ほど、言語は抽象化される。たとえば今の日本語の「動物」や「植物」は、抽象度の高い言葉だ。この2つの言葉が表現できる対象は多岐にわたる。一方、オーストラリアの南の島タスマニアの部族は、各種の「ゴムの木」を表す言葉はあるが、「木」という言葉は無いらしい。(『日本語(上)』金田一春彦著)

「エモい」や「モヤモヤ」は、抽象度は高いが、濾過された言葉ではない。多くを表すことができるが、その中身には、具体性が欠けているのである。それがこの言葉を動物的に感じる理由ではないだろうか。何かをグループ化したり、そこから派生する具体例を挙げるには、「エモ」や「モヤ」には、荷が重いのである。

抽象化された言葉と、抽象的な言葉は異なる。共に抽象度の高い表現という点では同じだが、具体性を備えるものと、欠くものに、分かれるのである。動物の声に聞こえはしまいか。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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