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おもしろい話

おはようございます。きょうも書いていきます。

最近、おもしろい話について考える。人の話を聞いていて、おもしろい、と感じるときと、そうではないときの違いはなんだろうと思うのだ。それで、ある本を読んでいてピンとくる表現があったので、それを元に考えてみる。

その本は『ロジカル・シンキング(照屋華子・岡田恵子著)』という、一見おもしろさとは遠い場所にありそうなタイトルだ。しかしこの中に出てくる論理パターンの一つの「解説型」は、おもしろい話を分解していると思う。まずは「解説型」について説明をしたい。

「解説型」は「事実」「判断基準」「判断内容」の3つで構成されている。つまり、「あることがあって」「ある基準をもとに」「こうする(した)」という順番だ。なぜこれがおもしろい話とつながるのだろうか。それは、おもしろい話も「事実(情報)」×「判断」で、構成されているからである。

少し時を遡る。インターネットが普及する十数年前まで、「おもしろさ」の軸足は「情報」にあった。正確に表せば、誰でも「おもしろく」なる話は、「情報」に頼ればよかった。たとえば社内の一部しか知らない機密情報や、アメリカから持ち帰った知識など、自分だけ知っているというので「おもしろさ」は量産できた。

しかし「情報」はやがて檻から出る。誰もが「情報」に触れて、その内実を確かめるのが容易になると、今度は軸足が「判断」に変わっていった。こうなると「情報」に頼っていた人間には厄介である。なぜなら「判断」はそう簡単に身につかない。持って生まれた眼や、磨き上げた腕がものを言うからである。

「おもしろさ」は「情報」から「判断」に主役が変わっている。以前ならば「情報」を丸ごとテーブルに乗せても、美味しいと言って食べられていた。だがいまはその調理の仕方が生命線である。一昔前はおもしろかった話が、最近おもしろくなくなったとしたら、この変化に追いつけていない可能性が高い。

「その話は聞いたことあるよ。」と思われたら、終了である。まだ見ぬ幻を探すか、刃を研ぐかはお任せだが、楽な道がないことはすでに確かだ。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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