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選ばれるということ

小さい頃から受験ばかりしてきたので、選ばれることには慣れている。もちろん選ばれないことにもだ。そして、いまあらためて思うのは、誰かに選ばれることに、一体どれだけの意味や価値があったのだろうかという疑問である。

僕はバブルの始まる少し前に生まれた。当時はお受験ブームというやつで、幼稚園や小学校の受験にも、お受験専用塾があるほどの熱狂ぶりだった。(今も一部ではあるのかもしれない)

小さい子どもたちが並ばされ、大人たちに点数をつけられて、合格と不合格に分けられる。まるでヒヨコの雄と雌みたいに。僕にとっては3歳から繰り返している儀式のようなもので、それが世の中の当たり前だと思っていた。

いまでも忘れない記憶がある。

僕は私立の小学校の付属幼稚園に通っていて、その幼稚園から小学校にあがるには試験があった。いわゆる内部進学者は、ほぼ全員がエスカレーター式にあがることができたのだが、その試験に失敗してしまう。

それからやむなく近所の公立小学校に進むことになったのだが、小学3年生のときに、その入れなかった小学校で1人転校生が出たというので、臨時の編入試験が行われることになった。それに今度は合格した。

そのとき、母からかけられた言葉が「この親孝行者!」だった。きっと母は僕が小学校受験に失敗してからの2年間つらかったのだと思う。合格を報告した時の母の嬉しそうな顔を見て、僕も胸を撫でおろしたのを覚えている。

それから、僕にとってなにかに選ばれるということは、親が喜ぶこと、幸せなこと、絶対的に正しいことの、代名詞のように感じていた気がする。

そして、そのあとも中学受験、大学受験、就活、社内試験といろいろな試験を受けた。だがいまあらためて思うのは「それらは全部どうでもよかった」ということだ。

これは、結果がすべてじゃないとか、日本式システムが崩壊したからとか、そういう話ではない。誰かに選ばれることに一喜一憂するなんていうのは、本当にどうでもよかったという話だ。

※ちょっと長くなりそうなので明日に続きます。笑

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