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考える力

おはようございます。きょうも書いていきます。

考える力とは何だろうと考えていた。それと昨今の文字離れ、動画の隆盛の話が交わる。考える力とは、抽象的な表現を創り出す力ではないだろうか。またそれを読み解く力ではないか。

受け手が文字を支持していた時代、考える力は、小説家や哲学者にあった。それは受け手が抽象的な表現を介して、自らの頭で具体的な事象に辿り着くことが可能だったからである。しかしやがて能力は衰退し、その行為自体が難しくなっていった。

いま、考える力と蜜月関係にあるのは、動画である。これは受け手の変化による影響が大きい。端的に述べれば、難しいことは分からないので、簡単に分かるよう説明してほしい、というニーズが大きいのだ。嫌味を混ぜると、分かった風にしてほしい、という要求がある。

より具体的な表現を、口を開けて待っている受け手と、より具体的な表現に近づけるべく、抽象的な表現から離れる送り手の、追いかけっこが行われているのが現代だ。その先に生産はなく、あるのは快楽である。

本来、抽象的な表現は、人類を発展させてきた。少ない字数と言葉で伝達を可能にすることは、より広く多くの人々に思想を届けることに貢献したし、自分の頭で考える余白を与えていた。しかしながら、これもネットの登場によって、代替されてしまった。創り出すのと伝えるのは、セットであるのが望ましかったが、乖離したのだ。

これからさき、創り出す力は一部の人を除いて、ますます減退するだろう。これがAIにとって代わられる未来、富裕層と貧困層に分断していく社会の、正体の一部ではないか。考えることから離れてしまった事態を、誰のせいにすればいいのか。それを科学者や金持ちだというのは、お門違いだと思う。

いま目の前にある快楽を退けられるか。伝達の簡略化は止まらない。訓練は自らの手で行うほかに、無いのである。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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