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写真と中性の言葉――金川晋吾『いなくなっていない父』

『いなくなっていない父』(晶文社、2023年)。このどこか曖昧なタイトルをはじめ目にしたとき、父がいなくなってしまい(いま・ここに)いないのか、それとも父はいなくなることなく(いま・ここに)いるのか、どちらの意味だろうかと不思議に思った。

著者の金川晋吾は、かつて失踪を繰り返していた父の姿を写真に撮り続けてきた写真家である。かつて繰り返していた、と過去形で書いたのは、著者が父の写真を撮り始めてからは十日間ほどの失踪が一度あっただけで、それ以降は現在に至るまで失踪していないからだ。その一度にしても父に理由を訊いてみると、当人は「そんなことあったっけ」と答えるだけで、どうやら誤魔化すために言ったのではないし、それでいて記憶を完全に喪失しているわけでもなく、ただうまく思い出せないという。

一つのドキュメンタリー全体を通して漂っているこの曖昧さが、金川の言葉を何よりも魅力的なものにしている。たとえば冒頭すぐにこんなことが飄々と書かれている。

記憶というものはとらえどころのないものだとつくづく思う。そもそも記憶と呼んでいるものが何なのか、私はよくわかっていない。よくわかっていないままに、記憶という言葉を使っている。だからというか何というか、こうやって昔のことを記していくのは、私にはとてもむずかしいと感じる。書いている、思い出しているときの自分次第のようなところがある。何とでも言おうと思えば言えるような気がする。

ただし本書を読み進めていくと、写真を撮ることを通じて父との関係性について思考を突き詰めていこうとする著者の姿勢が如実にあらわれてくる。著者の言葉は事態に触発されて生じる思考の動きに忠実であり、その語り口は軽妙ではあっても軽薄ではないのだ。しかし、著者が父の写真を撮る試行錯誤を繰り返すなかで得られたものが、この曖昧さだとするならば、それはまた奇妙なことではないか。

父の写真を撮り続けながら金川は、父との関係性をめぐる考察だけでなく、それと分かち難く生じてくる写真についての思索を展開していく。

失踪していた父に向かって「これからどうするのか」「何が原因でこうなったのか」と自分がたびたび問いかけていることは、《父に対して「この人はこういう人だ」という判断を下そうとする》ことと等しいのではないか、と著者はあるとき気づく。しかし判断を下すための言葉による問いかけに、父は曖昧な返事をするだけだった。そのため《問いかけることは判断の欲望を落ち着かせる方向には向かわずに、むしろさらなる問いかけや別の欲望を煽ることになった》。

それに対して父の写真を撮ることは、そういった《言葉によるやりとりを休止させるもの、問いかけをストップさせるものとして機能した》という。そして、写真を撮ることを通じてイメージの領域における父との関係性ができたことにより、現実では父との心理的な距離をとることが可能になる。そのとき著者はまた気づく――《写真を撮ることは対象との関わりや接触よりもむしろその距離こそが問題》なのであり、《父の写真を撮ることは、父を撮ることであると同時に、その距離を撮ること》である、と。現実において一人の他者を前にしたとき、写真を撮る行為と出来上がった写真のイメージによって生まれるこの距離によって、こちらの一方的な判断を下すための言葉が、その余白のなかで宙づりにされる。もはやそこでは、父という一人の他者を「失踪を繰り返す父」と言い表そうとすることは、粗雑で過剰なものとして退けられている。

実際のところ、それまで持続していた時間から切断されて動きを止めてしまった写真のイメージが、いったいどんな特性のものであるのかを語ることは難しい。写真は、写っている対象がある時・その場所に存在していたことを確実性をもって示す。しかしそのことを言い換えれば、写真はただ写っているものを示すだけの文字通り「平板なもの」でしかない。それでいて写真の場は、現実/イメージ(の領域)というように単純な二項対立の言葉によっては捉えることができないものでもある。

本書の終盤で金川は、父の写真を撮り続けてきたこれまでの経験を振り返りながら以下のように言う。

私が父の写真を撮ることを通して感じていることは、写真という場においては、父という人間のその都度その都度の個別具体性が前景化してくるということだ。写真という場においては、父は毎回ちがうものとしてあらわれてくる。まったく同じ父の写真を撮ることはできない。写真は、さっきの父と今の父が同じではないということをひたすら提示してくるのである。

父の写真を撮り続けるなかで前景化してきたものは、《父という人間のその都度その都度の個別具体性》であるというが、それはまたその瞬間その瞬間の(父という存在の)偶然性を強調するものであることを意味する。父の写真を見るたびに《父と自分の見た目が似ていると思う》が、そのとき感じるのは《必然性ではなくむしろ偶然性》であるという。ここで著者は、自分と父との関係を語ることにおいては、一般的に親子関係が語られる際に持ち出される「血がつながっている」ことさえもどこか過剰なものであり、本質的な問題にはならないと強調している。

私は、父と自分が似ていると感じたとしても、だからと言って、自分の内側の奥深く、見えない所に父と同じものがあると感じるわけではない。外側、表面にたまたま同じような現象があらわれている、そんな感じがする。そんなふうに感じるのは、私が写真を撮っているからこそなのかもしれないが。

冒頭で述べたこのドキュメンタリー全体に漂う曖昧さは、写真によって立ち現れてくる一人の他者の《個別具体性》そして《偶然性》によって支えられたものではないか。それら平板でありながらどこか捉えどころのない曖昧さに、私たちはつねに囲まれている。しかしそれを、既成の言葉による過剰な意味づけや判断を留保しながら言葉にして表現することは、写真について語ることと同様にとても難しい。

もちろん私たちは言葉による何らかの判断を下すことなしに一つの対象(人や物、出来事)を見続けることはできない。しかし金川は、父との関係に写真を介在させることによって、父という一人の他者を「ただ見ること」に留まろうとする。問いかけに対して一人の他者が応答する言葉の平板さと、対象への判断の言葉を停止させる写真が示す平板さ。写真の制作を通してこの二つの平板さと向き合い続けることによって、著者はそれまでとは別の新しい性質をもった言葉を手に入れたかのようだ。

金川によって本書に書かれた言葉たちを、「中性の言葉」と形容してみたくなる。それは、他者や出来事に判断を下そうとするその手前で、あらかじめ用意された言葉による意味付けを停止させる写真によって触発され、生まれた言葉だ。《余地、空白〔金川親子のドキュメンタリー番組を作った富士本さんが、金川の写真について形容した言葉〕》をもったこの言葉によって現実が捉え返されるとき、そこには曖昧さだけではなく、他者や出来事の《個別具体性》や《偶然性》をどこまでも肯定しようとする自由すら感じられる。そして、そんな性質をもった言葉の生まれるプロセスが、他ならぬその「中性の言葉」によって書かれているということもまた、不思議な喜びだ。


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