「密使と番人」(三宅唱、2017)
枯れ木が立ち並ぶ寒々とした山道。微かな風のざわめきと鳥たちの鳴き声とともに、一人の男が息を吐きながら落ち葉を踏みしめる音が響く。時おり、日没前の陽光が、くたびれ果てて地にしゃがみ込む男と、風に揺れている木々や丈高いススキの間に差しこむ。また今日もあっという間に、あたりは真っ暗になってしまった。夜の闇の中を照らすことができるのは、ぱちぱちと静かに音を立てて燃える焚き火の炎だけだ。男(密使)は追われている。そして、この荒涼とした風景の中を、彼と同様に彷徨い歩いては、彼を捕らえようとしている男たち(番人)がいる。
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時は19世紀初頭のことらしい。どうやらこの男(道庵=森岡龍)は、開国を望む蘭学者の一人で、江戸から幕府禁制の日本地図を持ち出して、その写しをオランダ人に手渡すため、身を潜めながら山を越えようとしているようだ。しかし、そういった筋書きのようなものは、冒頭すぐに映し出される言葉によって示されたものにすぎない。実際、数行の文字によって示された情報が少ないだけでなく、また人物たちが薄汚れた着物を纏い草履を履いているにしても、舞台がいつどこで起こっていることなのか判明ではない。そもそも、そんな物語上の設定について知る必要もないのだろう。
すべての人間たち(道庵や彼を追う3人の男たち、そして彼らの逃亡と追跡の途上で出会う夫婦)は、枯れ木や丈高いススキが鬱蒼と生い茂る山道の中で、それら自然と同等のもののように存在し、振る舞っている。振る舞いだけでなく、人間たちの息を吐き鼻をすする音もまた、風と揺れる木々そして燃える炎や流れる水が立てるざわめきと等価なものとして響く。そして、不意に、Hi'SpecとOMSBの劇伴のビートが流れてくる。
この荒涼とした自然の風景はいったい、いつの時代、どこの場所のものなのか。フィクションが設定した江戸時代という過去、それとも、俳優たちが演じている現代のものだろうか。いや、この光景は、いまだ現われていなかった/いないもの、つまり未来のものなのか。
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雪がまだらに降り積もった山道に、一つの死体がうち捨てられている。道庵は少し躊躇いながらも、ぼろぼろになった自分の草履を死体が履いていたものと取り換える。餓えたまま彷徨い歩いていると、川のそばに佇む粗末な住居を見つけ、そこで暮らす女(サチ=石橋静河)に出会う。食糧を分けてもらった道庵は、礼として数枚の銭をサチに手渡す。二人はほとんど身のある言葉を交わすことなく、小屋の暗がりの中では銭が立てる鈍い音だけが響く。しかし、運悪くサチの連れ合いの男(大二郎=井之脇海)が帰って来てしまったことから、道庵は大二郎を小屋に縛り付け、サチを人質に取って自分とともに道中を歩かせる。追手が来ないことを確認したところで、道庵がサチを解放する。
その時、サチは言う、「どうせ人殺しかなんかでしょ」。画面には彼女の背中だけが映し出されており、「違う、殺されるのはこっちの方だ」と答える道庵の声は、その画面の外から聞こえてくる。二人の表情は見えず、意思の疎通もなされないままに、二つの声が、サチの背中で反響する。突如遠く銃声が鳴り響くと、サチは大二郎がいる小屋まで駆け出して戻り、道庵はそのまま道を急ぎ、二人は分かれる。
その頃、道庵を追いかける三人の男たちは、大二郎が縛られた小屋を見つけ、異変を察知していた。手がかりを掴んだ彼らの内の頭領と思わしき男(高山=渋川清彦)が、仲間に指示を出してひとり道庵を追って行く。いまや道庵は雪原まで逃げて来たが、雪に足を取られては手荷物を落とし、転んでは起き上がることの繰り返しに疲れ果て、真っ白な地にうずくまっている。苦しそうに息を吐き、寒さに鼻をすする。すると突然、画面外から、高山が素早く飛び出して来て道庵に襲いかかる。二人は、銃や刀を抜くこともせず、必死で取っ組み合いをしぶつかり続ける。二つの重たい肉体が、獣のように、真っ白な雪原の上で折り重なってはもがき合っている。肉弾戦を繰り返しているうち、唐突に、高山は気を失って倒れてしまった。そうして、原因不明なまま倒れた肉体が、雪原の上にただ投げ出される。
思い返せば、川のそばにある夫婦が住む小屋の前には、小石を積み上げて作られた簡素な墓がいくつも並んでいた。実際、人間の死は、この風景の中ではとるに足らないことのように扱われている(先の、山道で道庵が見かけるうち捨てられた死体にしても)。頭領である高山が消えてしまったことで、道庵を逃したことを知った残り二人の追跡者たち(平蔵=足立智充、耕助=柴田貴哉)は、高山が死んだことも、道庵が追手を振り切ったことも、まったく何事もないことのように、平然と元来た道を帰って行く。
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振る舞いにしろ言葉にしろ、人間たちの意思の疎通は不明瞭なまま、ただ音を立てて、どこかへ反響していく。逃げ延びた道庵が、オランダ人への仲介となる人物(春敬=嶋田久作)に地図を手渡す目的を達して、最後の言葉を交わす際、対面した人物同士の切り返しショットが初めて使われる。しかし、その時でさえ、言葉は交わされているのだが、春敬の顔は笠に隠れていて、彼の表情をはっきりと認めることができない。
上述したように、荒涼とした自然の風景、そして自然が立てるざわめきの中で、人間たちの振る舞いや声は、それら自然とすべて同等のものとして立ち現われる。さらにまた、そこでは、人間たちひとりひとりの〈孤〉が浮き彫りになっている。しかし、その〈孤〉とは、人間相互の意思の疎通が欠けているために起こった、単なる孤独とは異なる。むしろそれは、自然の佇まいとざわめきがもたらす圧倒的な物質性に、人間たちが呼応するようにして立ち現われたものだ。そして、この〈孤〉として示された人間の姿は、いまだ現われていない人間の生の、その萌芽を、〈私たち〉に予感させるものではないか。
道庵が、オランダ(ヨーロッパ)という地理的な外部を見据えて、ひたむきに任務を遂行して目的を達成したとしても、その結果の行方や効果は彼にとって不明確なままに留まるだろう。そういった「外部」は、どこまでも想像上のものにすぎず、彼はまたすぐに元来た道を引き返さなければならない。画面はいっそう明るい光に照らし出されているが、見渡すかぎり荒涼とした原野が広がっている。そして、空っぽになった小屋を捨てて旅立とうとしているサチと大二郎もまた、この原野に立っている。彼女たちの行き先は分からない。しかし、陽光に照らされた大地に立つ二人の背中が映し出される時、他ならぬこの平原そのものが、いまだ現われていなかった〈外〉として、〈私たち〉の眼前に開け放たれている。
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