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手紙17

私は『期待』に長年囚われ続けていたと思う。


一番は『自分への期待』
「年相応にこうあるべき」とか「こう考えられるようになりたい」とか、「できる」のか「できない」のか、いつも過程をすっ飛ばして結果だけを求めていた。
いつも他人と自分を比べていて「あの人がこうなのに、自分は何をしているのか」「どうして同じ考えができないのか」と考えていた。
挙句の果てには「私みたいな最低で底辺の人間がいるから、すごい人たちが輝ける」なんて卑下していた。


そして『相手からの期待』
相手はそんな期待をしていないかもしれないけれど、以前の私は「どうしたら相手に必要とされる人材になれるか」を常に考えていた。
「私ができなければならないのは何か?」を見つけて、できるようになる努力していた。
今考えると、心の底で「できなければ、認めてもらえない」と怖くてたまらなかったのだと思う。


この二つとも、適度なものなら、自身の成長のために必要なこと。
何事も『ほどほど』がある。
だけど私は、『認められなければ、自分は価値がない人間』という思いに雁字搦めになっていた。


今は「今一番大切なのは何か」を考えて、そこに至るまでの過程を考えるようにしている。
ひとつひとつ解決したい問題を洗い出して、少しずつ「できた!」を増やしていこうと思うようにしている。


心がけてはいるものの、たまに忘れて、家に帰って爆発してしまうこともある。
爆発はするけれど、昔と違って、自分を観察するようになった。


今までは、怪我を負っているのに「とりあえず一日休めて元気になった!」と思い込んでいたのだと思う。
「今一番大切なのは何か?」を探す感覚は、「どこを怪我したのか?」を確認するような感じだと思う。
でもこれが結構歯痒い。
「これくらい平気!」って思って、考えずにさっさと進んでしまいたくなる。
ここで傷を確認したら、思うより深くて、動けなくなったらどうしよう?と怖くなると心の底で思っていた。
でも、その傷を見ることによって、冷静になれることもあると知った。


そんな考え方をするようになってから、自分にも相手にも、あまり期待しなくなった。
期待しなくなったというか、気がついたら『期待する』が抜け落ちている、という感覚というか。
気持ちが軽くなったような気がする。

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