義父のこと

義父が亡くなった。
出会ってから20年、心から尊敬し、だいすきな義父だった。
1年前、余命2週間と宣告され、1年間戦い続けた義父だった。
夫と覚悟はしていたつもりだが、訃報にあたり、今、まだ気持ちの整理がつかない。

義父が、一人の人間が生きた証として、記録する。

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わたしから見た義父は
 歌を愛し、演劇を愛し、音楽を愛し、詩を口ずさみ、小説を書く 芸術家であった。
 お酒が大好きで、おいしいものが大好きで、人においしいものを食べさせ喜ぶ姿をみるのが大好きな食道楽であった。
 仕事に熱心で、病で床に臥す直前まで日本中を津々浦々、営業で飛び回っていた「旅する人」であった。
 技術者でもあり、発明家で、経営者だった。
 人が大好きで、困っている人がいると放っておけない義の人であった。
 名誉や権威、権力に鋭敏な感覚を持ち、それを忌避する。繊細な人であった。

■技術者、発明家、経営者としての義父

〇技術者、発明家としての義父
 義父は稲森和夫氏が前職松風工業を辞め京セラを立ち上げた際に全面的な支持をしたことで知られる青山政次さんと深い関係があった。公私にわたり交友があったようである。私が夫と出会い結婚した当初、青山政次さんが初代館長を務められた青山音楽記念館でのクラシックコンサートに義父が私も招待してくれ、そこで義父、義母、夫とともに青山政次さんにお会いし、ご挨拶をした。青山さんのとても温和で優しい笑顔と、柔らかくあたたか手印象に残っている。また義父に対し、全幅の信頼をもっているという雰囲気で「よくやってるか?」というようにぽんぽん、と義父の体に手をおいていたことを思い出す。

 夫から聞くに、京セラ立ち上げ時に青山さんから義父に一緒に新会社設立に加わらないか、と誘いがあったそうだ。義父は、自分で会社を立ち上げたいとしてその話を断ったそうだ。夫がその話を私に聞かせてくれたとき、夫と義母は笑いながら「もったいなかったわよねー、でもお父さんらしいよね」と言っていた。

〇経営者としての義父
 私が夫と結婚した当初、義父は福井県鯖江市にて、容器包装製造の会社を経営していた。当時私が家に行ったときに目にしたものは、マヨネーズの容器やメロンの形をした緑色のアイスクリームカップだった。余談だが、今でもメロン型のアイスクリームを見るたびにこどもたちに「これ、昔、新潟のおじいちゃんがこのカップを作ってたんだよ」と話をする。こどもたちは大喜びである。「おじいちゃん、これ作ってたんだ!」。

 金型を調整し、またプラスチック成型のためのブローの風量を調整し、また食品を入れる容器であるため衛生管理に厳重な注意を払い、ととても緻密で細かな作業の一方、経営者として大局を読み、中長期的視点で設備投資計画や従業員の雇用・雇用条件などを検討し、もちろん目の前の従業員の生活を支え、また資材調達、卸先との交渉などとほぼ一人でマネジメントをしていたように思う。
 夫に聞くと、彼が大学生のころは水を貯めるポリタンクを作っていたそうで、そのバリ取りに夏休み期間などずっと手伝いをしていたそうである。まさに家屋内工業。
 プラスチック容器成型を生業としながらも、廃棄物問題、環境問題にも意識が高く、廃プラ処理について夫とよく議論していた姿を思い出す。
 私が義父と会って以降は、 義父は取引先との関係で、卵を使った食品に関連する容器包装の成型を主に手掛けるようになっていったようだ。その後、卵豆腐の容器成型と卵豆腐の製造にもかかわるようになっていった。
 
 義父自らが経営していたプラスチック成型会社は、いろいろなことが重なり結果的に経営をやめることになった。そのときの借金の総額を聞いて驚愕した。これが経営をすることか、と。しかし夫は冷静だった。「会社っていいときもあれば、悪い時もある。死ぬときにどの位置にあるか、だけだ」。

 義父は、そのときの巨額の借金をすべて返済した。

 義父は会社をたたむと決意し、福井県から新潟県へと拠点を移した。プラ容器成型会社経営時代にかかわりのあった卵製品メーカーの顧問として招聘されたのだ。そこで義父は、もちまえの鋭敏な舌をつかって、卵製品の開発に協力することになる。
 そのメーカーはたまご豆腐やミニプリンを作っていた。また、コンビニで売られている巨大なプリンの製造も携わっていたようである。義父は、プリンの甘みの調整や、たまご豆腐の味の調整の一人として製造にかかわっていたようだ。

 鳥インフルエンザで日本中のニワトリが処分された時期、卵の調達がうまくいかず、工場の製造がストップするのではという危機にみまわれた。そのとき義父は、青森や秋田、北海道の養鶏農家をつぶさに訪問し、調達の交渉をまとめていった。その間、何か月も家には帰らず、営業マンとして文字通り全国を飛び回っていた。

 大量生産される食品に対し、「何をつかっているのかわからない」という世間一般の評価がある。しかし義父は常に「このたまご豆腐や、この小さなプリンに使っている卵はとてもよいもので、コスト面からいえば度外視しているぐらいの質の高いものだ」と言っていた。なぜなら、それらは人々が日常的に口にするものであり、またプリンという小さな子どもの多くが口にする機会が多いであろう商品にたいして「こどもにきちんとしたものを食べさせたい」「こどもの舌をだめにしないような食品を提供したい」と思いがあった。
 そうした信念に基づき商品開発に協力していたため、市販品ではあるものの、それらは甘みを控えめに、卵の味がちゃんと味わえるものだったと私は感じている。スーパーでミニプリンを見かけると、こどもたちは「あ、これおじいちゃんが作っているんだよね」と言う。わたしも、おじいさんだけではないけど、そうだね、と言いながら籠にいれる。帰省の折にこどもがミニプリン大好きだ、と義父に伝えると、孫の顔をみながら「そうか、好きか。うまいか?」言いながらうれしそうに、静かに笑って言っていた。

 また義父は工場で働くアジアからの研修生たちの生活面も支えていたようで、義母は彼らに夕食をこしらえ食べさせていた。それも義父から指示されたものだった。働く人の生活を常に考え、市井の人々の生活が安寧であるよう、また自らも市井に身を置きながら自分ができることをできる範囲で淡々とされていた。


■文芸を愛する義父
 結婚する前の義父について、私が記憶する限りのことを記録する。
 義父は義母と結婚する前、劇団わらび座に所属し、劇団員として活動をしていたそうだ。
 
 以下、わらび座についてウィキペディアから引用する。「わらび座(わらびざ)は日本の劇団のひとつ。日本の伝統芸能を基盤とした演目に特色がある。 1948年7月、日本共産党党員芸術家会議の席上での要請に基づき原太郎により同年8月に東京で創立された海つばめ(第一次)が淵源。1950年原が帰還者楽団に参加することとなり一旦解散したが、1951年に海つばめ(第二次)が日本共産党の文化工作隊として再結成された。翌1952年にはポプラ座と改名し北海道を回るが、秋田県に拠点を移した1953年からは「黄に紅に花は咲かねどわらびは根っ子を誇るもの」ということにちなんで、現在のわらび座と名称を改めた。(以下略)」

 現在は、設立当初の特色は薄らぎ、株式会社わらび座として秋田の芸能、日本の芸術活動の一端を担う劇団として活動している。義父はそのわらび座の設立初期に関わっていた。
 
 義父がわらび座に参加した当時は団員として全国を巡っていたが、その後秋田県へ拠点を据えたのちはほかの団員とともに土地を開墾し、自給自足を目指す集団生活を行っていたそうである。また、共産党党員としても活動があったようで、文化大革命のときにには毛沢東に会いに行ったそうだ。
 その後、ベトナム戦争のときに義父を含め何名か志を同じくするもの達とベトナムに行きホー・チ・ミン氏に協力を申し出たそうである。しかしホー氏は、訪越した日本からの若者たちに対し、協力を申し出てくれたことに感謝を示しつつ「自国のことは自国でするのでだいじょうぶだ。それよりもあなたたちはあなたたちの国のために運動しなさい」と諭したそうだ。ホー氏の言葉を受け、帰国した義父はわらび座との活動に距離をおき、大阪で就職し、その後上述のように自ら会社を立ち上げたらしい。

 わらび座から距離を置いたのちも、芸能への造詣は深く、小説を書き、詩、歌をよく詠んでいた。なかでも小説に関しては、大阪在住時代、小説を書くために大阪文学学校に通っていたと聞いた。同期に田辺聖子さんがいらっしゃったそうである。また、詩を愛し、義母と詩を作っていたようで、時折、義母の作る詩について批評をしていた。曰く「母さんの詩は、とてもすなおで、ぼくはとてもいいと思うんだ」。煙草をくゆらせながらそうつぶやく義父に、二人の間の深い信頼と愛を感じた。
 お酒を飲んだとき、時々、歌を歌っていた。民謡、また詩のような曲を朗々と歌っていた。たいへんな美声の持ち主で、劇団の俳優としての姿を垣間見た気がした。

■食道楽の義父
 ものすごく忙しそうであったが、会うときはいつも穏やかで「今日はこんなおいしいお酒がある」と言って、福井県や北陸のおいしいお酒、あまり市場ではみないお酒を出してきて一緒に飲んだ。ほんとうにおいしかった。また、夫と帰宅したときはいつも義父自らが包丁をとり、魚をさばき、肉料理を作りもてなしてくれた。たいへんなグルメだった。

 にこにこしながら、穏やかにお酒をすすめてくれる義父の姿が大好きで、ついついたくさんいただいてしまっていた。酔っぱらって戸外へ涼みに出ると、積雪が美しい立山連峰が月光に照らされぼうっと浮かび上がり、山から吹き降ろす冷たい風が酔った体にここちよく、幻想的な世界に身をゆだね、ほんとうに居心地よかった。義父は本当に娘のようにかわいがってくださった。

 あるとき、ふとしたことから私がフクロウを好きであると知った義父は、「ミネルヴァの使者か・・・」とつぶやき、私の真の思いを即座に解してくれた。その後、全国を営業でまわる際にいろんな町のふくろうグッズと買ってきてくれた。会ったときに、そっけなく「これ、お土産」と渡してくれるフクロウのキーホルダーや置物をくださった。

 ものを作り、それが人々の生活を豊かにし、またそれを作る人たちも生活者として生活を営むことができ、市井の人々が平穏に生活できることを食品製造という立場から、支えつづけてきた人だった。華々しい表舞台で社長としてスポットライトをあびることはなかったかもしれないが、義父は、私たちの生活の中で「あってあたりまえのもの」となっているプラスチック容器包装を作り続け、誠実に食品製造に向き合い、私たちの生活を支えてくれてきた一人である。早くからプラ製品のごみ問題を意識し、なんとかならないかと試行錯誤し、これは持続可能ではない、どうしようもない、と言いながら、生きていくための選択をしていた人であった。

 わたしにはいつも穏やかで怒った姿などはみせたこともない、かっこよさ、ダンディズムをみせてくれた。夫は「父さんは『かっこつけしい』だから」とよく言っていたが、それがわたしにはほんとうにかっこよかった。

 お義父さんありがとうございます。将来、天国で一緒にお酒を飲みましょう。立山連峰を見下ろしながら。

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