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インターネット世界に生きる私たちが美術館に行く理由

小さい頃から美術館につれていってもらう機会が多く、絵はたくさんみてきた。これは東京の醍醐味だなあと思うのだけど、絵も音楽も演劇もバレエも、なんでもみたいものが見られるのがいいところ。

昔は、印象派の絵がつまらなくて、ただきれいなふわっとした絵、と思ってた。大学生の時はシャガールとかダリとか、わかりやすくかっこいい感じに憧れた。

でも、おとなになって、印象派やルネサンスの良さがわかるようになってきた。絵そのものの、明るい色彩や、おだやかな笑み、外面てきなものの素晴らしさだけでなく、歴史を反映しているから。

今日は、ルノワールをみてきた。「絵はみるものじゃない。ともに生きるものだ」という言葉がやたらと心に残った。有名なピアノを弾く姉妹や、初来日のムーランドラギャレット。都会のダンスと田舎のダンスは、対比もさることながら、2人の実在する女性の生き様を知ってから鑑賞するとなお面白かった。

小さい頃みたときよりも、格段に感じるものがあった。巧みに表された光のきらめき。だいたんな、あるがままの裸婦の姿。凛として、自由にいきようとする女性の瞳。なめらかで桃色にいろづいた、やわらかな肌。

すべてが、「絵は幸福でなくてはならない」というルノワールの信条を表していた。

ルノワールは、画家のなかではだいぶ恵まれていた方に入るとおもう。生前のうちに認められ、愛するひとと子どもをつくり、離婚もせず、妻と子どもたちの絵を何枚も描き、リウマチに悩まされながらも人々に見守られ、最期まで絵を描き続けた。

そんな幸せそうな人生のなかにも、もちろん苦悩があっただろう。そもそもが感じ易い職業なのだから、戦争で子どもたちが従軍することにも、負傷して帰ってきたり知人がなくなることにも、奥さんが亡くなったことにも。すべてに敏感に生きていただろう。晩年リウマチで思うようにかけなかった時は、さぞつらかっただろう。

でも、ルノワールの絵にはそんな苦悩は感じられない。いや、むしろ人生はかなしい、さみしい、くるしみがつきものだと思ってたいたからこそ、絵には恒久的にさえ感じられる幸せをちりばめたのかもしれない。

そしてそんな気づきは、生でルノワールの絵を何枚もみたからこそわかったことだ。

インターネットが発達し、べつに美術館に足を運ばなくても、絵なんて調べればいつでもみられる、というひとがいる。

たしかに、画像検索すればたいていの絵を画面上から見ることができ、必要があれば画家の生い立ちや絵のうまれた理由、詳細をかんたんに調べることができる。

じゃあ、なぜ人は美術館に足をはこぶんだろうか。お盆ということもあり、国立新美術館は若いカップルからお年寄りまで、たくさんの人であふれていた。べつにグーグルで調べれば、いつでもみられるのに。わざわざ入場券を買って、混んでる美術館に足を運ぶ必要なんてないじゃないか。そういう意見もあるらしい。

絵をみることは、ただ目の前の鉛筆や絵の具でかたちづくられた線をながめることではないとおもう。絵には、画家のパワーや感情、感性、そして隠された時代背景がねむっている。

相手に気に入られようとして、パトロンになってもらうためにやたらとかっこよく肖像画をかいた時代。そうではなく、人間のそのままの姿を描くのがすてきだとされた時代。

過去ではなく、現在をかくことがよしとされた時代。そのまた逆の時代。

ぱっと見るだけではわからない絵の背景が、たくさんねむっている。

そして何より、一枚一枚の絵にはそれぞれパワーがある。スピリチュアル的なことではなく、ものや人にはパワーがあるとおもう。力強いひと、なんとなく弱々しいひと、繊細なやわらかさをもつが芯はつよいひと。みんな、それぞれのパワーを放っている。それは、インターネットのなかでは決してわからない。

学生時代、岡本太郎さんのエッセイが好きで、この人の絵を見てみたいとおもった。いくつかネットでしらべたところ、やたら奇抜な、カラフルなわけわからん物体がたくさんでてきて、このひとはただキテレツなひとなのかもしれない、と勝手にがっかりした。

ところが、岡本太郎の作品展に足を運んだ時、その感想は底からくつがえされた。

なんだかよくわからないけど、生きていく、いきようとする力が、作品の中からあふれて、場を魅了していた。一個一個の見た目とか、芸術性とかは正直どうでもよかった。目の前でみているだけで、何かしなきゃ、今すぐ動かなきゃ、という気持ちがひしひしとわきあがってきた。

ネットで調べたのと同じ作品なのに。実際にであわなきゃ、わからなかった。

だから、絵は鑑賞というより、体験するために美術館にいくんだとおもう。初来日!とかいう言葉に思わず踊らされてしまうのも、本物の絵はたった一枚しかないからだ。その一枚は、パリやらニューヨークやら日本の山の中やら、いろんなところにあり、もしかしたらもう一生見られないかもしれない。そんな思いから、ひとは美術館に行くんじゃないだろうか。絵に、会いにいくんじゃないだろうか。

わざわざ足を運んで時間をとられる演劇なんて今時流行らないよ、という声に悔しい思いをした日を思い出す。これからも、きっと体験することの良さをわかっているひとにとって面白い世界になっていくはず。絵と同じように、演劇、舞台に眠っている、出会わなければわからない魅力を、もっとたくさんのひとにいいね!って思ってもらえたら、いいんだろうな。

ルノワールの絵をみて、美術館に足をはこぶ理由を考えて、心はいつの間にか演劇にいきついていた。

体験すること。知ってる、みたことある、きいたことある、じゃなくて、自分が体験すること。私ももっといろんなことを体験したい。

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