見出し画像

『バーバラと心の巨人』

『I KILL GIANTS』

監督 : アナス・バルター/ 原作:ジョー・ケリー、ケン・ニイムラ
出演 : マディソン・ウルフ、ゾーイ・サルダナ、イモージェン・プーツ、シドニー・ウェイド
2017年アメリカ


----------------------------

映画館で予告編を見た時は、「友達のいない、ちょっと空想壁のある変わった女の子。いつも、空想の中の巨人と遊んで(BFGか?!)いたところに、転校生がやってきて、その子と友達になって、徐々に心を開いていく」
みたいな話だと思っていたんだけど…
原題タイトル出てきたところで、
「あ、違うわ」
となりまして。


欧米の子供にとって、親(家族)の病気(死)は、というか受け入れがたい現実と言った方がいいのか、は怪物(巨人)の姿を取って現れるのが定石なのかしら?
バーバラにとっての巨人が「何か」と言うことを察した時に思ったのは、『怪物はささやく』と同じテーマだ、と。
自分の中にある恐怖を、外に出したらそれが現実になってしまうことが怖くて、内に籠ってしまう。または、その対象を破壊することが出来れば、恐怖に打ち勝つこと、若しくは恐怖の源を根絶することができると思う。
周りの大人や、友達は「巨人」などいないとバーバラに言うけれども、彼女は頑なに信じようとしない。だって、彼女の「怖れ(敵)」は、まだここにあるのだから。

でも正直、途中まで彼女が何と戦おうとしているのか全く分からなかったのだけど、保護者は姉だけ?というところに疑問は持ちつつ。ただ話が進むにつれて、「巨人」がなんであるかわかった段階で、それまでの事の意味がやっと分かったという。
なんで新任のモル先生が当初からバーバラに目を付けていたのかというところ(が疑問だったんだよね)とか。

『怪物は~』と根底にあるテーマ、問題が同じなのだけど、バーバラの方がエキセントリックというか、「母親」の事が終盤まで隠されていた分、なんというか[え?なんだろう、この子…」という困惑があったし、共感というか理解しがたかったかな。
バーバラ本人はそのつもりもないし、1人でやっているつもりだけど、思い切り回りを巻き込んでいて(傷つけたり)、でもそのことに無頓着でいることとか、が。手を差し伸べてくれる友達と先生がいるのに、頑なすぎることとか、が。なんで?って。
受け入れがたい現実という部分は同じなのだけど、それに対する恐れと戦い方は、コナーとバーバラと全く違う。でも、それだけ悩んで自分の中に、自分の心を受け入れた彼らの心は、強い。本当は強い。と巨人も語り掛け、事実、本当の心は、現実を受け入れ乗り越えられるほどに強く柔軟だけれど。でも多分、この子たちなりに、通過儀礼として必要な試練、自ら課した試練であったのだろうなぁと。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?