配られたカードで
2021年8月の連続ツイートまとめ。有名な「配られたカードで勝負するしかないのさ」について
なぜスヌーピー?と思ったけれどあれか「配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどんな意味であれ」についてのやつか>RT(2023年註:当時、Twitterのタイムラインでスヌーピーの有名な「配られたカード」エピソードが何度目かのホットトピックだった)
あれ、あのコマだけが独り歩きしているけれどスヌーピーの「配られたカードで勝負するしかない」って「置かれた場所で咲きなさい」って意味じゃないからね。
(当番さんムーミンとスヌーピーの話題になるとガタガタしだす)
犬小屋の屋根の上にいつものようにスヌーピーが座っている。いつも辛辣なことばかり言っているルーシーがやってきて、屋根の上のスヌーピーを見上げて話しかける。
「時々、あんたが犬なんか(just a dog)であることにどうやって耐えていられるんだろうって不思議に思うんだ(Sometimes I wonder how you can stand being just a dog. )」
スヌーピーはルーシーに直接言い返さない、犬だから。ルーシーが去った後、スヌーピーは内心で思う(思考を表す雲形吹き出し)
。oO(配られたカードでプレイするものなのさ……(You play with the card you're dealt...))
そして寝転んで続きを思う
。oO(色んな意味でね(Whatever that means,))
元の文 You play the cards you're dealt. を見ると「配られたカードで勝負する『しかない』」はちょっと「訳しすぎ」かもしれないですね。「(一般論として)君(を含めたプレイヤー)は自分に配られたカードでゲームをプレイするもんだよ」と言っている。
ルーシーに「たかが犬であること(being just a dog)によくも耐えていられるなと思う(I wonder how you can stand)」と言われたことへのスヌーピーなりの考えであることを踏まえてほしい。「耐えられる」とかではなくて、その手札からゲームを始める(play with)ってことをスヌーピーは言っている。
「たかが犬であること(being just a dog)」の dog に「どうやって耐えていられるんだか不思議(I wonder how you can stand)」とルーシーは言う。暗にルーシーは「私があんたならそんなの耐えられない(I can't stand it if you were me.)」と言っている。あ、stand って「我慢する、耐える」ね。
「犬なんかであること」の「犬」を色んなものに入れ替えてみてもいい。「デブなんかであること」とか(それは当番さんだ)。それはたまたま配られてしまった最初の手札なんだが、カードゲームってものはプレイヤー同士でカードを交換したり山札から追加で引いたりして「役を作っていく」もんだよね。
スヌーピーはルーシーに直接返事なんかしない。スヌーピーは作中で人間へ人語で話しかけることが一切ない。人間はスヌーピーに好き放題人語で話しかけるけれど。スヌーピーが言い返してこないことをわかっていてルーシーは言う、「あんたが犬なんかでいることによく耐えていられるなって時々思うんだ」。
自分が just a dog であることにどうやって耐えているか、そもそもイヤだと思っているのかどうか、イヤだけど耐えているのかについて、スヌーピーは何も言わない。「犬なんかであることによくも耐えていられるよね」は「犬なんかであることには耐えられない」ルーシーがスヌーピーにぶつける一方的かつ上から目線の感想だ。
スヌーピーはルーシーが去ってからただ思う。「配られたカードでゲームをするもんなんだよ」「色んな意味でね」。スヌーピーにとって「ただの犬であること」は「手札」であり、「その手札でゲームをするもの」だけど、その手札がいい手札か悪い手札か、満足しているかどうかには一切言及していない。
cards you're dealt はゲームの初めにディーラー(dealer 日本語では「親」とも言うね)がプレイヤーへディール(deal 配布)したカード。「手札」。ディールされた手札はランダムであって、プレイヤーがどうこうできるようなものではない。「犬」のカードが配られたら「犬」がプレイヤーの手札になる。
「そこ(そのカードを配られたこと)を認識するところから始まるもんだよ」「その手札でゲームをやる(play with the cards you dealt)もんだよ」とスヌーピーは言っている。自分が「犬」の札を配られたプレイヤーだということを無視してプレイするのは、目を閉じてポーカーをやるようなもんッスよ。
当番さんカードは万年ニワカだけれど、カードゲームの「配られた手札」はカード占いの「並べられたカード」に通じるものがあると思っている。気に入る気に入らないとか、耐えられる耐えられないとかの問題以前に、「それが今の自分に回ってきたロット(割り当て)であること」を認識しないと始まらない。
「そこから始まった(始めさせられてしまった)」ことがお気に召そうと召すまいと、耐えられようと耐えられまいと、「その手札を認識し、その手札を踏まえて自分の目指すものを得るために必要な手を打っていく」わけで。新たな手札を求めて山札を引くとか、元の手札から1枚捨てるとか。
ダイエットするにしたって自分の現時点での体重を知らない状態で始めないっしょ。「巨体デブ」っていう手札を捨てて「長身スリム」っていう新手札を手に入れるにも「今自分は何kgの巨デブカードを持っているのか」を直視しなきゃ「何のカードを切ればこの札を処分できるのか」って対策取れないっしょ。
得てしまった「肥満」の手札を捨てるために日々新たなカードを山札から取り、また日々様々なカードを消費している当番である(「運動」「節制」「記録」「投薬」)。
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