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雑感。愛について

2014年の当番ツイートまとめ。元のTogetterまとめはリンク先。Togetterまとめがなくなったら参照できなくなるのでこちらへ自己転載しました。

【ディズニー版『美女と野獣』について。あるいは、互いに称えあうということ】

ディズニー版『美女と野獣』について。物語の冒頭はフランスとおぼしい小さな村の、秋の朝。秋の実りの色に馴染む様々な茶系統の服を来て、現世的な話ばかりしている村人たちの中で、明るい青のジャンパースカートに真っ白なブラウスのベルはひとり浮いている。

ベルは「この小さな寒村の生活以上のものがほしい」と歌い、本に夢中になっている。ベルの読む本はおとぎ話。「ジャックと豆の木」や身をやつした王子が出てくるような。

ここでのベルは、本を読み村人と違う視点で物を見るという点では知性的だけれど、深い知恵というより、まだ想像力が豊か、という段階に留まっている。ベルは知恵の色である青を身につけてはいるが、その青はまだ「明るい(浅い)」

一方、野獣は初登場時点で茶色の体に黒系のズボン、暗い赤系のマントをつけている。自己中であることと、物事の表面しか見ずに自分を不快にする醜い者を虐げたことの罰として、彼は野獣の姿にされてしまった。村人は、茶は茶でも明るく柔らかく、軽さもある茶色だが、野獣の茶は暗く硬く重たい茶。

ベルと野獣が盛装してダンスを踊る場面。ベルは金色の、野獣は紺の夜会服を着る。金色は野獣の茶色を明るく明るくしていった色。紺はベルがお城に来た時の普段着の青を深く深くした色。茶色い現実は磨けば金色になり、青い想像力は深めれば紺碧の知恵となる。

ベルと野獣は互いの色を認め、その色を高めたら/深めたらこうなる、という色の服で夜会に現れる。あなたの茶色い地の底に眠る黄金を、あなたの青空の彼方に広がる宇宙を認めます。それは地に/空に隔てられて自分ではわからないけれど、私の眼に映るあなたの黄金、あなたの宇宙は何と美しいのでしょう。

あなにやしえをとこを、あなにやしえをみなを、というのは、たとえばそういうこと。

【牡羊座8度のサビアンについて。やわらかなファリックシンボルと『風立ちぬ』】

唐突に牡羊座8度の話をするよー。サビアンシンボルの原書を読んでいたら、この度数の解説に「ファリック」という言葉が出てきた。phallic、陽根的な、という意味。ここのサビアンシンボルは「風に靡くリボンのついた大きな帽子、東へ向いている」

やわらかそうな、感受性の高さをイメージさせるようなこの文言のどこがファリックなのだ、と最初は思った。8度は偶数だし。ルディア版だと明確に「婦人用の帽子」と記しているし。陽根、男根的と言うと、真っ先に浮かぶのは侵入・侵襲・侵略的なイメージだから。

だけどジョーンズとルディア両方の解説を読んだら、ファリックであるということのもうひとつの意味がわかってきた。剣のようなものとしてあるファロス(たとえば♂火星)ではない、やわらかな感覚器としてのファロス。いいのか昼日中からこんな話して。

俗に思春期入りたての男子は「風が吹いても立つ」と言う。ファロス(適宜皆様お好きな名前でお呼びになって)はそんな、カタツムリや昆虫の触角のような、刺激に敏感に反応する神経の塊、繊細な感覚器でもある。感じるために、触れたり触れられたりするための器官。

牡羊座8度の「風に靡くリボンのついた帽子」というシンボルがファリックである、というのは、感じるもの、刺激に反応するもの意味。体の性別に関わらず、生きている人間は心にそういう敏感な部分を必ず持っている。「ここちん(心のtntn)」と言えばわかる諸姉も多かろう。

宮崎駿の『風立ちぬ』で「たぁれが風を見たでしょう」という詩が引用されている。ぼくもあなたも見やしない。風が吹くとわかるのは、風に吹かれて舞う何かがあるからだ。そして風に飛ばされる帽子を見る私たちの目が、風に撫でられた、と感じる皮膚があるからだ。

映画『風立ちぬ』には……やだなあこのタイトル、ダブルミーニング的な意味で……「風は吹いているかね」という印象的な台詞がある。「風は吹いているかね」は実のところ、「君は風を感じているかね」という問いと同じだ。

風を感じる、ということはそこに風の吹く世界があるということであり、同時にそれを感じる自分がいるということ。風が吹いて、帽子のリボンが靡く。男も女も大人も子供も、みな風の中にいる。私が受けているこの刺激は何だろう。

牡羊座8度のサビアンで、私が思い出す映画がもうひとつある。『メリー・ポピンズ』。冒頭で、バートが歌う。

Winds in the east, mist coming in, 
 Like somethin’ is brewin’ and bout to begin. 
Can’t put me finger on what lies in store, 
 But I fear what’s to happen all happened before.

風は東風、霧も出てくる
何かが起こりそうな気がする
それが何か説明はできないが
これから起こることは
みんな前にも起きたことのような気がする

「風に靡くリボンのついた帽子」がファリックなシンボルだ、ということに話を戻す。陽根というもの、男性的なエネルギーのありかた、というのは一面では確かに侵襲的なもの、切り裂くようなものではある。それは、受ける側から見るとそうなってしまう。

しかし陽根を持つ側から見ると、陽根とそのエネルギーは世界の懐に飛び込み、一体化して同じリズムで動くためにある。どうソフトに言ってもえっちに聞こえるけどごめんね昼間から。風が吹いたとき、既にリボンは反応している。

そしてこのシンボルが「風に靡く長い髪」ではなく「風に靡くリボンのついた帽子」であるのはつまり、帽子って頭の保護のために被るもので、安全に(どうオブラートに包んでもえっちになるので強制終了。敏感なんだよマッチョじゃないよ!とだけわかって下されば)

映画『風立ちぬ』のカプローニさんの台詞、正確なところを思い出せなくて検索していたら、こう出てきた。 

カプローニ「まだ風は吹いているか日本の少年よ!」 
二郎「はい、まだ風が吹いています。」 
カプローニ「では生きねばならん!」

「風が吹いていること」が、「風が吹いていると感じとる自分がいること」であるならば…この遣り取りはこう翻訳できる。

 カプローニ「まだ生きているか日本の少年よ!」 
二郎「はい、まだぼくは生きています。」
 カプローニ「では生きねばならん!」

そして。そうであるなら。「風立ちぬ」と詠いだした詩人が「いざ生きめやも」と続けた理由が見えてくる…ような気がする。Le vent se lève, il faut tenter de vivre.風が吹いている。私は生きようとしなければならない。

風が吹いている。そう感じるこの私は、今生きている。この先へ、風の吹いてくる方角へ私は進もう。

【ふたたび、やわらかファロスの話。ファリックな衝動は、男性にも女性にも、大人にも子供にもあるもの】

(冒頭3ツイートは他の人がした話なので割愛。概要だけ記すと「『男並みに性欲があること』に罪悪感を持っている人ってまだ多いのだろうか」「(性的な二次創作をする女オタクに)隠れろ隠れろと言う人が同じ口で『キャラ名犯す』とか『ペロペロ』と言って矛盾を感じていないように見えるのはなぜか」「女オタクは性的なことを口に出すとき『男の猥談の真似』をしているのではないか」。詳細を知りたい場合は元Togetterを見てください)

RT言及。「性欲→男属性のもの→男属性とは乱暴なものである→だから性欲を表現するときは『男のように』乱暴に」という論理か。うーん…女性の中にも男性の中にも、この論理に嵌まり込んでいるひと、いるね。どうにかして、いわゆる男性性と破壊性を分けることはできないものかな。

鍵と錠前、矛と盾、攻と受、触れる指と触れられる肌。大きく分けると前者が「男性性」のグループ、後者が「女性性」のグループ。これには善悪や優劣は無関係、念のため。触れようと伸ばされる指先にも触れられる肌にも、同じくらいたくさんの神経が通っている。傷つけられればどちらも痛い。

赤ちゃんが興味を持ったものに手を伸ばすように、自ら手を伸ばして触れたい、自分がちからを加えたらどうなるか見たい、という原初の衝動としての「男性性」(狭義の「性欲」)は、男女関係なく「ある人にはある」。ただそれが「ある」ということと「どう表現されるか」は別のこと。

幼児の手でぺちぺちと叩かれても、大抵の場合そう痛くはないけれど、同じ幼児が髪を引っ張ってきたらかなり痛い。幼児側から見れば、どちらも触れたらどんな感じがするか興味があったからそうしたまでのこと。問題は、幼児的な好奇心は適切なフィードバックがないとエスカレートすること。

エスカレートするというのはつまり、強い刺激でないと気持ちよくなれなくなるということ。「男性的であること」そのものに暴力性が含まれているのではなく……何と言えばいいのかな……暴力性というものは、自分の感覚に閉じ籠る幼児性の方に含まれるのだと私は思う。

男女関係なく、自分の刺激自分の快感のみを追求していけば、性欲の表現は強烈に、暴力的に、また非現実的になる。腐女子のお姉さんは「男性オタクの模倣」をしているのではないかもしれない。単に、男性も女性も、自分を気持ちよくさせてくれるものを前にして赤ちゃんに退行しているだけかもしれない。

そうでなければ「可愛すぎて殴りたい」「〇したい(私はどの言葉も自分では使いたくないから伏せるが、お好きな漢字をお入れになって)」と並行して「ペロペロしたい」なんて幼児語が出てくるものか。

「犬は噛むかも」と思っている人間と「人間は殴るかも」と思っている犬がいたとする。ひとりと一匹が勇気を出してお互いに触れようと思ったとする。人間は手を伸ばす。犬にとって手=前足は獲物を押さえつける時に使うもの。攻撃される、と思ってとても恐ろしい。思わず体を引っ込める。

犬が人の手に鼻先を近づける。「噛まれる?!」と思った人間が思わず手を引っ込める。犬が怖い人間と人間が怖い犬とが互いの表現方法の違いに慣れ、相手を怖がらせない接触のタイミングや力加減を憶えていくのには一定の時間がかかる。

犬の鼻先、人間の指先、男性の……♂。「触れたい。触れたらどう感じるものか、触れたものがどうなるのか知りたい」という強い欲望と、それを満たすために備わっている、神経の塊のような敏感な器官。神経が集まっているが故に、そこを攻撃されるととても痛い。

何かに触れたいと思うとき、そういう、乱暴に扱われたら本当に痛いものを相手に伸ばしていくように生き物の体はできている。「敏感な部分を自ら相手に委ねる」というような柔らかい表現をとる男性性というものも存在しておかしくないと思うんだ。そしてそういうのが私の考える「漢前」というやつなんだ。

はい、私も対象が非実在のキャラクターであれば、どんだけ極端に走っていてもいいと思います。現実の人間(現実の生物)と触れ合うときにジェントルでさえあれば。つまりそれが、変態紳士というものですよね。

【『ナウシカ』で語る、やわらかファロスの物語】

架空の生物の話で申し訳ないけれど、『風の谷のナウシカ』の王蟲ね。でかい、強い、硬い、大勢で押し寄せてきて何もかも潰してしまうあの王蟲。しかし彼らは、何かを知ろうとするときに例の黄色い、細くてしなやかな器官を伸ばすのね。あれは人間の指に該当する器官だと思われる。

原作版はちょっと置いておいて、より多くのひとが一度は見たことがあるであろう映画版ナウシカに限定して話をする。あの映画でナウシカは、三度王蟲の黄色い器官に触れられている。幼少時の回想場面まで入れると四度、王蟲がナウシカにあの黄色い細い器官を伸ばしている映像が流れる。

王蟲があの器官を対象に伸ばすときは「対象を深く調べたいとき」「対象の傷に触れる・傷を癒そうとするとき」「対象と離れがたく感じているとき(回想場面、幼いナウシカと引き離される仔王蟲)」。攻撃ではなく、相手と繋がりたいと思ったとき、王蟲は黄色い器官を相手へ差し伸べる。

映画版ナウシカのクライマックスで、何千匹もの王蟲が傷ついたナウシカを憐み悼んで、黄金色の触手を差し伸べる。それを見えない目で感じとって、風の谷の預言者・大ババ様は言う。「なんという憐みという愛じゃ。王蟲が心を開いておる」

「その者青き衣を纏いて金色の野に降り立つべし 失われし大地との絆を結び」金色の野、とは王蟲から差し伸べられた黄金色の触手の集まりであり、それがそのまま失われた大地との絆を表す。でかい、重い、強い、硬い王蟲が、何かに触れたいと思う時には細い、柔らかい、傷つきやすい器官を相手に伸ばす。

王蟲がナウシカへ伸ばすヘビのような、くねくねした、細長い金色のもの、って勿論ファリックシンボルでもあったりする訳で。そういう、攻撃性とは別にある、相手を破壊せずにそっと触れる、絆を結ぶための器官、という性質も、ファロスにはあると思うのだよね。人間の手(指)がそうであるように。

ファリックなもの、相手に触れようと自ら伸ばしていく、敏感で興奮しやすい神経の塊、というものをただ暴力的で侵略的なだけのもの、と捉えるのはおかしいと思うんだ。それは、たとえば手はひとを殴れるから暴力的な器官、というのと同じようなおかしさだと思う。

『シザーハンズ』のエドワード君でもない限り、人間の手はひとを殴ることもできるし、首を絞めることもできるけれど、何かを作ったり子供や犬を撫でたり抱きしめたりすることもできる。男性性と暴力性を常にセットで語ることは、ひとと触れ合いたい青年の手に鋏を溶接するような残酷なことではないかしら?

(ある人の「なんだ、『やわらかいファロス』ってたとえば触手のことじゃん」という言及を受けて)ですです。そうです。あとは蛇さんとか、イモムシさんとか。ただ昼日中から触手だのティンコだの言っていいもんかなあと思ったのと、エロ関係の用語を使うとイメージがそちらだけに固まってしまうかなあと思って遠回し遠回しに書いてただけで……

指も♂もファリックなパーツであるとしたら、それと暴力性を(常に無理矢理)セットにするということはシザーハンズ&股間にピストルということになるな……まだ宵の口から何ツイートしてるんだ私……あからさまなんだか遠回しなんだかわからないエロトークしてごめんなさいねえ。

はっ。はっ! はっ!! ここ二、三日やわらかファロス(やわらか戦車みたいに言うな)のことをグルグル考えてはツイートしてたけど、これひょっとして天秤座の火星について考えてたってことか、私!!!!

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