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「適量」問題について当番が思うこと

2019年6月25日のツイートまとめ。発端は料理レシピの記述が曖昧であることが許せない勢からの「『適量』って何だよ?!」という叫びがタイムラインを飛び交っていたこと。

適量はなあ……難しいよなあ。しかし本当に「適量」としか言えんものはあるわな。「適量」を使わずに料理の作りかたを説明しようとしたら普段作り慣れている料理ですら難儀するんだよ。卵かけご飯の醤油の量、目玉焼きに振る塩の量、冷奴にのせる刻み葱の量、焼き魚に添える大根おろしの量……

「適量ってどんな量? 何に適した量? 正解はないの?」ってさ、万人にとっての正解ってないよ。濃い味スキーから濃い味ダメーまで居るし。当番は「適量」の代わりに「好きなだけ」と言うようにしている。目玉焼きの塩胡椒、好きなだけ。紅茶のお砂糖、好きなだけ。冷奴の刻み葱、あなたのお好きなだけ。

「適量と書いておきながら適量を教えてくれないなんてひどい!」と言われたって「適量」は「食う人に適した量」なのだし加減するものだから、教えられない。目玉焼きの塩胡椒は好きなだけ振りなされ、紅茶のお砂糖は好きなだけ入れなされ、あ な た は どのくらいが好きなの?と投げ返す。

ホットドッグのマスタード、適量。ホットケーキにかけるメイプルシロップ、適量。唐揚げに絞るレモン汁、適量。うどんの七味唐辛子、適量。うな丼の粉山椒、適量。正解不正解があるわけではなく、好きなだけ。あ な た が 好 き な 分 だ け。作ったことなくても食べるときの好みはある筈。

プレーンオムレツの塩の量ですら、M玉の全卵ふたつに対して粗塩を親指人差し指でこぼさずプチっと1回でつまめる程度の量「を目安に加減する」としか言いようがないんだわ。なぜなら卵のサイズも白身と黄身の比率も毎回違うから。まず卵を割って中身にコンニチハしてからおもむろに塩をつまむ。

焼き上がったオムレツをひとくち食べて塩っ気が足りないなあと思ったなら、ケチャップなり醤油なり、多めにかければいいのよぉ。なお、当番のオムレツは有塩バターで焼くので塩は控えめだ。無塩バターで焼くならM玉全卵ふたつに対して親指人差し指中指の3本指でひとつまみくらいにしているぞ。

適量≒好きな分だけ、であり、そこは作り手の裁量と好みに任されている。「自分の好きな味の濃さにするにはどれくらいの塩が必要かわからないから訊いてるんじゃないですか!」と言われても、教える側は教わる側の好みの濃さなんざ知らないよ。人の好みは他人にはわからないんだから。

バターだってベーコンだってメーカーが違えば風味が変わるしね、なんの変哲もないベーコンエッグだって毎回等量の塩胡椒で毎回同じ味に仕上がったりはしないんだわ。卵産むニワトリだってミルク出すウシだってベーコンになるブタだって個体差あるんだから。

「失敗したくない気持ちが根本的な原因なのでは」うん、あると思うわ。ゼロ百思考、完璧主義、あと焦燥感と怒りと恐怖感で注意力を奪われてる。私も身内と旧友に何人かとにかく料理に失敗する人がいて、傍で見ていると常に何かに焦っているし、他人の手際と自分の手際を比べて不安がったりしている。

脳内の理想像と現実に自分のできるレベルに絶望してキーッとなるのは無理もない、当番も裏編み込みが自分でできずによくキーッとなっていたもんだし。しかしそのキーッをどうにか落ち着かせて自分の手や目が伝えてくる触感や匂いや音や色に注意を向けること、練習を重ねることしか上達の道はないんさ。

【2024年5月追記】
この「『適量』って何だよ! グラムで全部書いといてくれよ!」と当番のような「『適量』は『あんたの味覚に適する量』だよ! 『あんたの適量』はあんたにしかわからないよ!」は言ってみれば「風と地の応酬」だと思う。

当番はホロスコープの初期配置から見て地の要素が強い方ではないけれど、風の要素よりは地の要素の方が僅かに強い。「レシピに全ての情報が正確に書いてあって、それを正しく守ればおいしい料理になるはずだ、『適量』とだけ書かれていて正確なことが書かれていないのは不備だ! 困る!」には「だーいぶ頭でっかちだなあ、味見しな」と思う方です。レシピ書くシェフの「適量」が料理を作って食べる「この私」の「適量」では全然ないことがある。なぜならシェフの体と私の体、シェフの舌と私の舌は違うから。

頭だけで料理して自分の舌を置き去りにするもんじゃないよ、食べるのは自分(たち)だよ、と当番としては思うわけです。

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