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最善を尽くす

夫が他界して四十九日も過ぎ、3か月になろうとしている。
絵は娘制作。許可を取っていないが本人のnoteで公開されているものなのでいいでしょう。亡くなる1年ほど前か。

全容


 
さて、夫の父親が亡くなってからは29年経った。夫と同じパーキンソンだった(夫が父親と同じというべきか)。それで来るべき車いす生活のためにこの地に平屋を建てたのである。結局、車いす生活になる前に入院3か月ほどで他界したのだが。
 
だから父のときは介護はなかった…はずだが、父が入院した後当時北見に住んでいた私を母が呼び寄せ、一緒に毎日入院先に行った。「一人じゃ大変だから」と母は言ったが、入院先では当時でも付き添いは必要なかった。単なる見舞いである。が、母は毎日通勤するように見舞いに行き、看護師がしてくれる食事の介助も母がしたし、トイレに行けずポータブルトイレのときは母が付き添い、歩行器で歩く練習をしたいとき私が付き添ったりした。
 
10日ほどで一旦北見に戻り家の掃除や洗濯をしてまた札幌に戻る生活が続いた。
今、時代が変わったから声に出して言えるようになったが、当時はその生活に絶望しかなかった。いつまで続くかわからないのである。そして、いつか退院しても、在宅介護となればさらにいつまで続くかわからない。
その絶望もつらかったが、自分がそれを絶望だと感じている、自分自身がいやだった。家族の世話をしているのになんとひどいことを、と思う。
 
後から思えば、母は私が親戚から何か言われることのないように、後ろ指を指されることのないように、という配慮からだったのかもしれない。当時は親戚付き合いも頻繁だったし、母自身何か経験があったのかもしれないと思う。
父にしても、日中、家族がそばにいると落ち着いていてよかったと看護師さんたちが言っていた(つまり夜中は違った、ということでもある)。
だれもが最善を尽くしていて、誰かを貶めるつもりなど誰にもなかった。すべてを理解してもなお、言葉を選ばなければ、私には絶望である。
まだ介護保険がなく、在宅介護とは家族だけで行うことだった時代の話。
 
30年後の現在、たくさんの方々に支えられて、私も自分の時間を(減らしつつも)持ちつつ、終わってみれば晩年となる4年ほどをこの家で過ごした。
反省も後悔もあるが、あの状況下での最善を尽くした、とも思っている。

最善と幸福とはイコールではないけれど。
 

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