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食べて、語る

私もベトナム料理が好きだが、タイ人朋友も好きだ。子どもの頃から食べ慣れているらしい。(だから私の「ベトナム料理食べに行こう」というときのワクワク感は理解できないらしい。田舎の日常的な食べ物だから。私が甘エビの刺身に大して心躍らないのと同じようなものか)

タイといっても朋友が育った東北部のその町にはベトナム人も多く住んでいて、その地域の食べ物を共有しているらしく、ベトナム料理に入っていたソーセージ状のものを「私の田舎の味」と言っていた。

朋友はタイ人だが父親は潮州の人、母親はラオスの人。中国南方の文化習慣で育ったそうだ。おばあちゃんはタイ語が話せなかったという。家族の共通言語は潮州語。ただし長じて学校でタイ語の教育を受けるようになってからは全部忘れたそうだ。

近所にはベトナム人の他台湾人も住んでいて、台湾の言語(多数あって複雑なのでこのように称しておきます)も耳にしていたそうだ。

当時家は貧しかったが、その中でもおばあちゃんは貯金して中華民国に寄付していたそうだ。中国共産党政権から逃れた人々のことを私はよく知らない。しかしベトナム料理を食べながら、あるいはお粥の店で食べながら(だいたいの中国系の人々と同様朋友もお粥が好き)実際の経験を伝える話を聞いている。
 
日本語教育に携わっていると、日本の国益にかなうとか国際関係がどうとか、大きな話になってしまいがちである。自分の仕事も、留学生が日本で進学するか就職するか、または成長して国に帰るか、といった教育の目的や目標にばかり焦点をあててしまう。それは仕事として当然であり悪いことではないし間違っているわけでもない。しかし、ただ自分と異なる歴史や文化について直接語られる、そのことで自分の人生が豊かになる、そんな体験を大事にしたいし、多くの人々に知ってほしいとも思う。

日本語教育という仕事の枠があって、その枠内の外国人は仕事の対象である。枠内も大事、枠外も大事。まとめたらシンプルになりました。
 
写真は先日いただいたベトナム料理です。

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