黙示録

アンはそっとリンド夫人の腕をはずすと、とつぜん台所を横切り、広間をぬけて階段をもとの自分の部屋へとあがっていった。
窓辺にアンは目をうつろに見ひらいたままひざまずいた。やみはこく、畑に雨が打ち付け、森では大木に嵐が 身をよじってうめき、はるか遠くからは大波にくだける音がひびいてきた。そしてギルバートが死にかけているのだ! 
聖書に黙示録の書があるように、誰の一生にも黙示録がある。アンは嵐と暗やみのなかで身も世もなくねもやらずにすごしたその苦しみの夜、彼女の黙示録を読んだ。


彼といると、景色が彼になってしまう。でかいので右側の景色が何も見えなくなる、という物理的な理由もあるとおもうけれど。でもなんか、なんていうのだろう、たぶんあの道を一人で歩いたら、大きい青い空に圧倒されながらも、彼のことを心の中で少し、思い出してしまうと思う。


香りが……鼻から離れずに困る。家にいて、焚いてるアロマや柔軟剤の香りしかしないはずなのに、なんとなくまだ近くに香りの元がいるような気がしてすんすんやってしまう。



「かれしほしー」

「作りなよ。物理的に」

「はい?」

笑いながら言って、リン酸とータンパク質とー炭水化物とーってつらつら並べる彼の言葉にけらけら笑った帰り道。

遠回りだって、時間がかかるって嫌ってた道から帰ろうって自分から言ってくれたのは、前を向いてずんずん歩いてるくせにわたしが狭い道を苦戦して歩いてるのに気づいてたから?

話しかけられているから視線を合わせようと顔を上げると、目を逸らすのはなんで?

恋の欠片っぽいのを拾い集めたって、これはどう考えても恋愛感情ではない。彼には彼女がいる。話を聞いていてもめちゃくちゃな子で、愚痴ばっかり言っているけれど別れていないのが証拠だし、私も、何かの拍子に彼に抱きしめられに行って「ほんとはずっとこうしたかった」なんてくさいセリフを吐けるくらい彼への感情がはっきりしていればまだ悲劇のヒロインぶってられるけど、彼が彼女と別れたと聞いても、付き合わない。なりたくない。順番待ちしてたみたいだから。そしてこんな理性的に考えられてしまうってことは、本能的に好きってことではない。


「あ!あれブルガリだよね? 香水付けてたの?」

「うん、めっちゃいい匂いだよこれ。付けてみ」

私のコートを持ってきながら彼はそう言い、なんでほかの男の香り付けなきゃいけねんだよーなんてぶつぶつ言っていたところに、ぶしゅっとかけられた。

ホームで電車を待っているときにコートから立ち上ってくるのは明らかに男物の香水で、とんでもなく虚しくなった。「自分のすり減る恋はやめよう」と誓った一番最後の恋から何も変わってないじゃないか。取り敢えず家に行くのはもう二度としない。


春になったら何か変わるだろうか。周りに馴染めないことを母に分かってもらえなくて辛い。でももう気づいてるんでしょ?わたしは嫌なことからとことん逃げるし、一人になるのが怖くて嫌だから何が何でもしがみついていようとか思えないのだ。特定の人と深く仲良くなれない。すぐ嫌な部分に我慢できなくなる。お昼ご飯誰と食べよう問題。今週ずっといたのは彼女持ちの男で、きっと男好きとか男としか遊ばないとかあいつのこと狙ってんのとか浮気してるとか色々言われてる。たぶん。

春になったら変わるだろうか。


彼へ抱いている気持ちこそ本物で、掛け値なしにただ、楽だからとか楽しいからだとかって思っていたけれど、今週で少し変わった。携帯ばっか弄ってるし、全然喋らない時もある。彼曰く不規則な生活をして寝不足で疲れているかららしいが、目の前に人がいるのにあんまりだと思う。段々素を見せてきたってポジティブ解釈もできるけどたぶんそうじゃない。

本当は気づいている。何もかも自分で選んだことだ。自分で選んできたんだから、これからも自分で何とかしないとどうにもならない。

人生の黙示録。どん底。取り敢えず春休みが始まったから、いったんやりたいことだけ考えることにする。まずは花束を買って部屋に飾ることから。




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