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第7話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ヒスパニック系の女子たち」

何が何でも英語が話せるようになるぞ、と心に決めた私は、日本人女子とは距離を置いていた。そんな一人でポツンとしている私に声をかけてくれたのは、ヒスパニック系だった。7,8人のグループで、コロンビア、プエルトリコ、メキシコなどの出身。会話は大抵英語だったが、スペイン語で勢いよく話すこともあった。「ラテンは明るい」彼女たちを見ていてつくづく思った。日本人であんな人たちはテレビの中にしかいない。

彼女たちの中で、ギリシャの彫刻のような顔立ちをした女子がいた。メキシコからの移民で、英語には強いスペイン語のなまりがあった。真っ白い肌にウェーブのかかった黒髪を無造作に伸ばした、男の子にも見える彼女に見とれた。名前はカーミン。それが後になって、カルメンの英語読みだと知ってびっくり。カルメン、そう、彼女は正にカルメンだった。

ところで、日本と違って生徒間では苗字は使わない。教師はさすがにMr. XXXXX もしくはMs. XXXXと敬称付きの苗字で呼ばれていたが、生徒は教師からも生徒同士でも下の名前で呼びあう。

今いるインドネシアでもそうだ。政治家であっても下の名前に敬称を付けて呼ぶことが多い。「だって、苗字で呼んだら、その人個人じゃなくて父親か母親の意味になりかねないでしょう?」と。

ヒスパニック系の彼女たちが日本について私に聞いたことは何一つなかった。私に声を掛けたのは私が日本人だからではなく、転校生で寂しそうにしていたから。「アメリカ人」は外国には興味がないと思い知らされた。常に海外の評価を気にする日本人とは全く異なる。人の功績をたたえる時も、いかに外国(先進国)で頑張って認められたことが話題になる日本とは大違いだ。

アメリカは世界トップの国。外国からどう見られているかなんてことは、大人でも子供でも、考えたことがない。学校で、日本がらみで私が聞かれたのは唯一「I love you」「Kiss me」って日本語で何て言うの?だった。

ある時、学校から1泊旅行に出かけた。「リトリート」と呼ばれる合宿みたいなものだろうか。宿泊施設はNYのスタテン島の教会だったと記憶している。私は当然ヒスパニック系のグループと行動した。夕食のあと、がらんとして講堂で一人ずつ歌を歌った。

日本の歌を歌ってというリクエストに応じて格子戸をくぐりぬけ 見あげる夕焼けの空に、だれが歌うのか 子守唄 わたしの城下町」そう、小柳ルミ子の「私の城下町」を歌った。日本らしいマイナーサウンド。歌詞は全部覚えていて、しかも結構上手に歌えた。これが受けた。優勝者はケオリ(こう発音されることが多かった)で決まり!と極めて大袈裟に喜んでくれた。ラテンでなくても、アメリカ人は日本人に比べて表情が豊か。教師は褒めるのが上手だった。

また、同時に彼らは不器用だとも思った。絵を描くことも、歌を歌うことも、手芸もまともにできない。ピアノを音符を見ながら弾ける生徒は日本人二人だけ。ギターを弾ける生徒も、私の知る限り一人だったと思う。音楽番組などを見て「アメリカ人は皆ギターが弾けるのでは」と父に尋ねると「まさか、そんなこと全然ない」と言われた。その通りだった。

そのギター少女はいつもギターを背中にしていて、休み時間になると集まってきた生徒の前でポローンと弾いていた。大きな目、浅黒い肌、ハスキーな声、ウェーブのかかった黒髪を腰まで伸ばしていて、大股で、前のめりで歩いていた。男でも女でもない。周りに決して同調しない彼女に魅力を感じた。密かに憧れた。

 
 
 

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