マスネ《ウェルテル》
《こうもり》に引き続き、ウィーン国立歌劇場ライブ映像の《ウェルテル》。
影が強い。《こうもり》とは対照的に、ところどころに散りばめられた「明るさ」「幸福感」が鬱々とした影に飲み込まれていくような印象を受ける。
特に、若々しく光あふれるソフィーの歌う「幸せ」がウェルテルには届かずに漂っていくところや、最初は驚いたアメリカンな服装と水着姿の子どものポップさが、不穏さを醸し出している。後者に関しては、ポップアートから感じる不穏さと似ているかもしれない。
《ウェルテル》に限った話ではないのだが、今の生活や立場、誇りを捨てきれない人間と、愛に敗れて忘却を願う人間の噛み合わなさは観ていて悲劇的だと感じる。《アイーダ》のラダメスとアイーダもその構図だ。《ウェルテル》のシャルロッテとウェルテルにせよ、ラダメスとアイーダにせよ、不幸とは言い切れない死によって終わる点も興味深い。
見終わってどこか救われた気分になった《アイーダ》とは違い、《ウェルテル》を観たあとに残ったのは「すっきりしない気分」「もやもや」だった。おそらく、シャルロッテの振り切れなさがその原因だろう。ウェルテルに愛を告白しながらも、アルベールに気を遣ってウェルテルの最期の望みを叶えられないシャルロッテの曖昧さに、もぞもぞともどかしさを感じる。
しかし、実際の自分の生活を振り返ってみると、オペラの登場人物たちのように振り切れないことのほうが「リアル」だとも思う。その点に《ウェルテル》の「よさ」を感じる。
公演後、浮かれ気分でスキップでもしてしまいそうな《こうもり》に対して、《ウェルテル》からは考え事をしながらゆっくりとウィーン国立歌劇場の大階段を降りていく自分を想像した。クリスマスはノエルの流れる《ウェルテル》でしんみりとし、大晦日は《こうもり》でぱーっとする(《こうもり》では12/31のあとは12/32になってしまったけれど!)のがよいかもしれない。