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朝日で思い出す過去の記憶

ひさしぶりに朝日を見た。

出かけていたり台風だったり寝ていたり

朝日を見れるのはいつもじゃない。

数年前一人ここに移り住んで、朝日を見るのが楽しみだった時期がある。

家の前やベランダで鳥がとんでもなくさえずり目を覚ます。

すると明るい朝日。

あの頃は本当に鳥たちに起こされ🦜

朝日に励まされ🌅

生きていた。

最近自分があまりにも楽なのは、あの時期ひとりの時間で沢山じぶんと対話したからなのに、忘れていた。

今朝の朝日で、そうやってなんとか頑張って生きてきた自分を思い出し、過去の自分は報われた。

頑張っていることがバレないように
困っていることがバレないように
いつも前向きでポジティブで

ってやっていた。

ある時そのエネルギーに限界がきて自分の中で何かが終わった。

もういいや。

となった。

それがいつのことか覚えていない。

ひとりになるためにここに来たのに
そんなことに気づいていない表面上のわたしは
会わなくていい人に沢山会って
無駄に傷ついて
やっと自分の行動が寂しさを埋めるためにしていたことだと気づいた。

寂しさを埋めるために人と会ってもその人とは続かない。

だからすべてやめた。

本当に嫌な思いや気持ち悪い思いを沢山していたあの頃の自分がいるから今、本当に好きなことだけを選択できている。

たまにまちがうこともあるけど、最近はほぼほぼ合ってきた。

もし不快に感じたら自分のあの時の選択、確かに違ったなと思える。

結局、不快を作ってるのは、その瞬間に選択を曖昧にしたから。その瞬間の選択をめんどうがっておざなりにした結果、不快がくる。

いや、不快がきても良くて、その不快の前の選択が自分が納得していたかどうかが大切で、その選択の結果不快を感じても、あー、残念。くらいで終われる。

あの時あぁしていれば、という後悔をしたくない。

明日死ぬなら、今日、心を自由にしないと後悔する。

後悔したくないからする。

じゃなくて

したいからする。

と頭の中で聞こえる。両方ということで。

自分の考えてることを話すのがいつからか嫌になって、でもリリックにのせてラップしてるラッパーが好きすぎて結局自己表現しないと生きてて楽しくないな、と思う。

何かをしようと思うと、このやり方がいい!という情報が溢れているし、ほとんどの人がそれが正しいと思っている世界で、まったく心が惹かれず自分が思う方向にいくしかなかった過去の自分。

その選択でみんながうまくいくかはわからないけど自分はそうやってきて良かったな。と思う。

好きにやってこ。

電線もそのうち懐かしくなるんだろうな。
と思う。
この前アリゾナで最後に食べた寿司。
美味しかった!

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