見出し画像

声が出せない

(2/9 各項目追記しました)

声が、出せなくなった。
ほんとうに、文字通り、声が出せなくなった。

人間のコミュニケーションは、実はほとんどが非言語情報を重視しているという説(*)もあるし、会話の中身を一切覚えていないけどなんか楽しかったなという記憶だけ残っているというような話もよく聞く。
会話の中身にはなんの意味もなくて、ただただ会話している、そのことだけが重要という場面は日常生活において結構あるし、実際そう思う。

(*)よく言われている説を調べてみたのでメモしておく。
①メラビアンの法則
言葉に対して表情や態度に矛盾があった場合に、人は非言語情報からの情報を重視する傾向がある。(言語情報7%、聴覚情報38%、視覚情報55%)

②バードウィステルの研究
二者間の対話では、言語によって伝えられるメッセージは、全体の35%にすぎず、残りの65%は、話しぶり、動作、ジェスチャー、相手との間の取り方など、言葉以外の手段によって伝えられる。

③ザルトマン 非言語学の先端理論
人間が言語化できる情報は5%。残りの95%は言語化されない。言語化情報ばかりを頼りにし、情報の大半を取り逃がしてしまった結果、「的を射た発想ができない」「適当な判断ができない」「行動の勝手がわからない」といった事態に陥ることが増えてきている。

が、ほんとうに、声が出せなくなった。
いくら普段意味のある言葉を発しているわけではないとはいえ、声が全く出せないということは、思った以上に大問題だ。
意図的に黙ることと、黙ることしかできないこととは、表面的に起こっていることは同じでも、内実は全然まったくなにもかも違う。
自分が自分でないようだし、世界の見え方もまるっきりちがう。
とにかく、なにもかも違う。
大げさなと思うかもしれないが、人間がそれまで当たり前に使っていた機能をひとつ失うということは、どでかいインパクトがある。

ということで(ということで?)、せっかく(せっかく?)声が出せなくなったので、この「声が出せない事件」について、何が起こったか、何が変わったか、何を思ったか、とにかく今分かっているすべてを書き留めておくことにする。とにかく書く。
声は出なくても、文字は変わりなく書ける。文字があってよかった。
人間にテキストコミュニケーションがあってよかった。
言語情報ばんざい。


何が起こったか

慢性鼻炎と扁桃肥大

元から、鼻と喉のトラブルが多い。

まず、鼻炎。
毎年突発的にくしゃみと鼻水、鼻づまりが止まらなくなる時期があり、くうっ、こりゃ遂に花粉症かな……と嫌々アレルギー検査を受けたところ、全く一切アレルギー体質ではなないことが判明、じゃあこれはなんなのよと彷徨った挙句「非アレルギー性慢性鼻炎」という「花粉とか季節とか関係なくなんらかに反応して症状が出る、まあつまりは鼻炎」との診断を得た。(ちなみに、鼻炎の9割はアレルギー性らしいがごくまれにアレルギー性ではなく鼻炎になる人がおり、それにあたるらしい。謎の引きの強さである)
アレルギー性であろうがなかろうが、結局出ている症状はほぼ同じなので、花粉症の薬ほぼ同じ薬を処方してもらい、症状が出たら服用するという生活をしている。まあつける薬があるだけよい。

そして、よく喉を壊す。
元からおしゃべりなたちで、まあよくしゃべる。しゃべるのだが、一日中友達と喋った日や、ひたすらしゃべる仕事などだった日の夜には、すっかり声が枯れて喉が完全に終わってしまう。そういうもんだと思っていたが、どうも世の人はそうでもないらしい、と気付いたのは比較的最近で、「一日喋ってしゃべり疲れたな~とは思いますが、喉が完全に終わるというほどではないです」と聞いて驚愕した。そうなのか……。
一番ひどかったのは高2の時で、私はずっと演劇をやっているのだけど、引退前最後の公演の当日、その朝に、声が完全に枯れてしまった。泣いた。連日の追い込みや緊張興奮などによる疲労が積み重なり、それが喉に出て、声が枯れた。その公演はカスカスの声を何とか絞り出して何とかやり遂げたはずだが、絶望&諦念&もう笑うしかないという心情は痛烈に覚えている。
なぜこんな声が枯れやすいのかというと、生まれつき扁桃腺が大きいから。別に風邪をひいていなくても熱がなくてもいつでも「アー」と口を開けて覗けば前から明らかに見えるほどに(特に右の)扁桃腺が大きい。
演劇をやり続けていてかなり発声練習は丁寧にやっているので、喉を傷めない声の出し方は熟知しているつもりではあるのだけれど、小手先ではどうにもならないほどすぐ喉が痛んでしまう。
というわけで、おしゃべり×扁桃肥大のダブルパンチでしょっちゅう喉を壊す。

こんな調子で、鼻も喉も本調子!という時期はほとんどなく、常にプチ爆弾を抱えて過ごしているのが日常。
人間誰しも何かしら、片頭痛/喘息/アトピー/靭帯損傷……などなにかしらの不調はひとつくらい抱えているもんだと思っているが、よりによってこの爆弾は……できれば欲しくなかった……が、喚いたところで、自分のこの体はどうしたってひとつしかないので一生付き合っていくしかないのだが……。


治療の経緯

やっと本題であるところの、なぜ声が出せなくなったのかという話に移る。
経緯の記録として、日を追って記載していく。
これを書いている今も、声は出せない。

1/16(月)
初診。
このところ、鼻炎の症状が厳しく、声も枯れかかっているため、近所の腕利きの耳鼻咽喉科のかかりつけ医にかかる。
鼻から内視鏡を突っ込まれて涙目になりつつ喉の奥の様子をモニタで見せられる。扁桃腺が大きいことと、本来白いはずの声帯が赤く腫れているということを説明される。
副鼻腔炎とその影響による炎症と診断される。
鼻炎の薬(飲み薬と噴霧薬)と、喉の薬(飲み薬とうがい薬)を処方され、大量の薬を抱えて帰宅。
扁桃腺について、何度も繰り返しており声を使う生業なので根本治療したい旨を相談。
扁桃摘出手術を勧められる。
「扁桃腺を……と、取る……?!!」と驚きながらも、これはもう、どうせいずれやるなら、やるしかない……ッッと瞬時に腹を括り、手術を受ける決意をする。手術は大学病院でないとできないらしく、紹介状を書いてもらう。
紹介状。自分の人生にそんなものが現れるとは思っていなかった。
5マス進む。

1/17(火)
大学病院へ電話をかけ、予約を取る。
最短で明日診察可能とのことで、早速予約を取る。
1マス進む。

1/18(水)
大学病院を受診。
あまりの緊張で予約の30分前に到着する。
大学病院は混んでいる。1時間程度待合で待つ。診察を受ける。扁桃腺摘出手術をする前提で話していきますね、と話が進んでいく。頭では決意したものの、心が全く追いついておらず、ヘラヘラしながら話を聞く。人間はあまりに動転すると防御反応として笑ってしまう(*)、というが、それである。
手術の日程、事前検査、事前説明の日程があれよあれよという間に決まっていく。空き枠や事前準備の関係で、約2か月後に手術を受ける運びとなる。出た目の数×10マス大ジャンプする。

(*)社交上の笑い(防御の笑い・無価値化の笑い)、緊張緩和の笑い、というものが存在する。

『人はなぜ笑うのか 笑いの精神生理学 ブルーバックス』 志水 彰/[ほか]著

1/23(月)
再度かかりつけ医を受診。
前週の受診以降、動転しつつも普段通りの生活を送っていたが、週末、ついに声が完全に枯れる。無限に咳が出る。
処方薬はまじめに飲み、まじめにうがい手洗いをしていたのだが、手術の話をしたり、人と会って喋ったりしていたのが祟ったらしい。
「本当は小声でしゃべるのも声帯が動いてしまうので、避けていただいて、すべてのコミュニケーションをスマホでテキストを打つなどして声を一切出さないようにした方がいいんですがね、難しかったですかね?」と言われ、前回の診察で、実は「おしゃべり禁止令」が出ていたことを初めて知る。
手術のことで気が違っており全く話を聞いていなかったことを悟る。
改めて1週間の「おしゃべり禁止令」とステロイド剤を拝受する。ここから今回の「声を出せない事件」が本格化する。
1回やすみ。

1/30(月)
再々度受診。
1週間本気で黙り続け、ほぼすべてのコミュニケーションをジェスチャーとテキストのみでやり遂げたものの、引き続き喉が痛む。咳は治まる。
途中、あまりに声を出していなかったため声の出し方が分からなくなり、リハビリ的にセリフを小声で読んでみたりしたが、無声音しか出せず、有声音を出すことが非常に困難である。
再び鼻から内視鏡を突っ込まれて涙目になりつつ喉の奥の様子をモニタで見せられる。鼻炎の症状は落ち着いたものの、まだ声帯の炎症がひいておらず依然として半分ほど赤いままだということを説明される。
追加で1週間の「おしゃべり禁止令」を拝受する。
大量の処方薬を抱えて帰宅。
1回やすみ。

2/1(水)
初診から半月が経ち、悟りが開かれはじめる。
一連の事件について、ひとまずまとめてみようと思い立つ。
1マス進む。

(以降、何か進展があり次第、随時更新する)


回復の経緯

(2/9追記、治療・症状の記録だけでなく日記も兼ねる)

2/6(月)
遠征公演のため、帰省する。
夜中、同じバスで帰っていた後輩①と海老名SAのフードコートで休憩する。肉まんが食べたかったがホットスナックがなかったので代わりに売店で笹かまぼこを買って食べる。(後輩は吉野家牛めし定食を食べていた、深夜のSAで食べるものとして一番正解だと思う)
身を守るため、のどぬーるぬれマスクと蒸気でホットアイマスクとノイキャンイヤホンで顔を覆う。

2/7(火)
無事、大阪に着く。
後輩①を車で迎えに来てくれていた後輩①母にカスカスの声で挨拶をする。

訳あって件の手術日程を1週間後ろ倒しに変更したく、その旨大学病院に電話をかける。自分では声が出せないため電話を掛けられず、隣で母に代理でかけてもらう。
曰く、電話口のみでは変更できず診察が必要とのことで、次回診察の予約を取る羽目になる。内容が内容なので致し方ないとは思うものの、このご時世に日程変更のひとつにも直接の診察がいるのか……と途方に暮れる。

2/8(水)
昼過ぎ、後輩と駅で出くわす。
お互い挨拶を交わす前にまずairPodsを外すという動作がシンクロしてウケる。弾みで「お互いまずairPods外してるのオモロ」と言う。
言った途端、自分が普通に声を出したことに気付く。後輩も同じタイミングで気付く。
声が出るようになっている。感動。
約2週間ぶりのまともな会話がairPodsなのも意味不明だが、ひとまず問題なく有声音が出ることに心底ほっとする。
同時に、「無言の行」はたったの2週間だったのかということに愕然とする。あまりにも途方のない期間だった。
声は出せるものの、週末に公演本番を控えているため、必要以上の発話はしない、セリフ以外の発話は最小限の音量に抑えるようにする。

声を出せないというのも人格が変わった心地だったが、最小限の声を出しているとそういう性格になるような感じがして、後輩②に「なんか人格変わってません?」と言われる。
実際、舞台上でのみ満足に発話できるという状況なので、自分の中身は一旦消滅していて役としてのみこの世に存在しているような心地がする。
唯一、不意にairPodsの話をしてしまった瞬間だけ普段の自分がいた。

もうひとつ、airPods事件とほぼ同時に、激烈な腹痛に襲われる。
死ぬほど痛くて死んだほうがマシかと思うほど痛いが、この後リハーサルが控えているので生きる。
薬局でビオフェルミンと正露丸を買う。
多種多様な薬を飲み始めてから1週間ほどして便秘気味だったのと(薬剤性便秘(*)というのがあるらしい)、過敏性腸症候群の体質があるのとで(過去2回救急車で運ばれたことがある)、左下腹部が激烈に痛む。(救急車で運ばれた時と同質の痛みで死を覚悟する。その時は一泊入院した。いつかの12月25日だった気がする)

(*)種々の薬物により腸管運動が阻害されたものです。原因となる薬剤には(中略)咳止め・風邪薬、喘息の薬(気管支拡張剤)があります。

https://www.kurume-hp.jp/senmon/benpi/about

薬が効いてなんとかリハーサルをやり遂げる。
片付けを後輩①②③に任せ早退させてもらい帰路につく。ありがとう。
道中腹痛に耐えかねて途中下車する。やり過ごしてなんとか帰宅する。
薬を飲んでるせいで別の症状が出てそのためにまた別の薬を飲むとか、最悪のピタゴラスイッチじゃねえかよ、と悪態を突きつつ一刻も早く就寝する。

2/9(木)
起床、腹痛は落ち着いており一安心する。
昨日一日の出来事を振り返って壮絶さにウケる。
なんでこんな状況で週末に公演が控えているのか意味が分からない。
稽古以外の時間をすべて体調の回復と休息とメンテナンスにあてているが、公演準備自体は滞りなく(滞りなく?)問題なく(問題なく?)進んでいて、表向きには何もトラブルが起きずに進んでいるという、冷静に考えると意味不明な状況でウケる。(ウケている場合ではないがウケるしかできない)

体調は並。(もう何が並なのかよく分からないが、ひとまず日常生活+稽古が問題なくこなせる状態を並ということにする)
可能な限り休息してから稽古に出発。
久しぶりにできる限りの出力で声を発しつつ通し稽古をする。
昨日はセリフを発話することに精一杯だったが、今日はもういつぶりか分からないほど久しぶりに最大出力を発揮でき(能力ではなく許可の意)、制限のないことの身軽さに感動する。
週末に備え、稽古以外の日常生活は発話をはじめとしてその他体力気力をセーブできる限りセーブする。

帰宅。昨日よりマシではあるが腹痛が再来し危機。
整腸剤と多めの白湯でやり過ごす。
一旦、冷静に考えると、たしかに薬は今週末まで処方されているのでそれを真面目に服用し続けていたが、声が出せるようになっている今「これは一旦服用を打ち切ったほうがいいのでは?」と考えを改める。
正直、現時点では喉の調子は全快したのかよく分からないが、今となっては声が出せない問題より、腹痛問題の方が確実に重大であり、最悪のピタゴラスイッチを断ち切るほうが優先だろうと判断する。
明日以降、のどの症状緩和の漢方と鼻炎の噴霧薬のみ残し、その他喉鼻の飲み薬はやめることとする。(本来は主治医の判断を仰ぐべきなのだろうが、遠征先なのでかかりようがない)
若干喉のヒリつきを感じなくはないが、もう今更一日薬を飲み忘れたとて最早関係ない気がする。
出来る限りの保湿と防備をして就寝。

どうでもいいが、谷崎潤一郎の『細雪』は小説そのものとしても素晴らしくて愛読書なのだが、実は一部では「病気小説」としても有名なんだよな……などと思いだす。(面白いコラムなので紹介)

・・・登場人物に病気が多いことから、「細雪」を病気小説として捉え一章を割いています。そもそも初頭から脚気にビタミンB1注射が出てきて、最後は結婚のために東海道線で上京中の三女雪子の下痢症状で終わります。雪子は病気とはいえないまでも顔のシミに悩まされ、次女幸子にはおそらく急性肝炎と思われる黄疸症状が現れます。また家族の何人かは「神経衰弱」に悩まされています。・・・

https://www.ashiya-hosp.com/kouhou_hope/kiji/143.html


何が変わったか

「声が出せない」事件の発生以来、私の中で何が変わったか、おおむね時系列順で述べていく。

アイデンティティ・クライシスが起きる
おしゃべりなのにしゃべれない。
性格が変わってしまったみたいな気がする。
何をするにも1枚膜がかかったような心持ちになる。
世界がいつもより一回りよそよそしいものに感じる。
私の最大の特徴である「おしゃべり」が封じられてしまい、人格が完全に迷子になる。

人見知りをする
もともとはいわゆるコミュ強と言われるような、全く人見知りをしない、人の懐に入り込むのが大得意の性格をしていたのだが、まったく、まったくその発揮の仕方が分からなくなった。
人と関わること、その最初の、人と目を合わせることをまずためらってしまう。目が合って、話しかけられたり、挨拶をされたりしたら、返すことができない。説明しようにも、声が出せないので、まず躓いてしまう。のを避けようとして、誰とも目を合わせないように、早足でさささーっと逃げるようにすれ違ってしまう。
これまでは、知人と顔を合わせれば全員と何かしらのコミュニケーションを取るたちだったのに、180度逆転してしまったような状態に陥る。

ヤケ食いをする
叫ぶこともも出来ないので、ストレスを消費で発散すべく、近場のコンビニ・スーパーで計1万円ほどの食料を買い込む。
喉が痛いので風邪ひきの病人に差し入れるような食べやすいものばかりをひたすらカゴに放り込む。両手いっぱいにレジ袋を抱えて帰り冷蔵庫をツメツメにする。
ここ最近、食事・運動・睡眠をかなり良い調子でやっており健康そのもので体の調子が万全だったのだが、もう健康とか知ったこっちゃねえという気持ちでプリンやらゼリーやらをバクバク食べる。
そもそも病人への差し入れみたいなものばかりを買い込んだので特に太るようなこともなく、そのうちに甘くて柔らかいものはいい加減食べ飽き、肉や野菜を摂取したくなり自炊を再開、健康的な食生活に戻る。

声の出し方が分からなくなる
冗談ではなく、声の出し方が分からなくなる。
夜、家で一人でためしに何かしら声を出してみようと試みるも、喉の筋肉の動かし方が全く分からない。なんと発話すればいいのかも見当がつかない。
これまでどうやって話をしていたのか、どんな声の大きさ・速さ・高さ・声色・癖で喋っていたのか、なにもかも分からない。
このまま声の出し方がずっと分からなくなって、一生声が失われてしまうのでは?と恐怖する。
一度、夜中にパニックに陥る。
寝て起きて、そろりと「おはよう」と言ってみる。
無声音のみではあるが声の出し方を思い出すことができ、事なきを得る。
有声音はまだ怖くて出せない。
この冬一番の寒波が来た日、あまりにも寒くて「さむっ」と思わずこぼす。ふつうに有声音が出たことに気付き安心するも、声が全くでないわけではないが、声を出してはいけないというジレンマに引き続き立ち往生する。

徐々に適応する
最初こそドギマギ挙動不審な動きをしていたが、次第に声を出せない生活に慣れる。開き直ったのか、悟りが開けたのか、ふしぎと落ち着いてくる。
「声を出せない自分」の箱に合わせて自分のかたちが収まっていくような、明らかに「声を出せる自分」と別の人格をしている「声を出せない自分」がしっくりくるようになる。

表情が豊かになり、ジェスチャーが増える
表情だけでも、以外と返事・意思表示はできる。
身振り手振りの表現が豊かになり、身体感覚に鋭敏になる。
喋ってないのに喋ってるね、と言われた。
着ぐるみと喋ってるみたい、とも言われた。

人の話がよく聞こえるようになる
話せないことで、自然と聞くことに意識が全振りされる。
とにかく、人の話がよく聞こえる。
顕著だったのは稽古で、自分のセリフが言えなくなった分、相手のセリフがよく聞こえるようになり、今までも聞いていたはずの全く同じセリフなのだが、その言葉が急に頭に入ってくる。いかにいままで「言う」ことに気を取られていて「聞く」ことができていなかったのか身をもって知った。
(声が出せないのに、セリフは口パクで動きだけでも稽古をしているというストイックさ、演劇に取りつかれたお化けなのか?)

それなりの楽しみ方がある
読み上げアプリを使って、簡単な返事を代用することを習得する。
サンプラーのように事前によく使う語句を登録しておいたり、伝えたい事を打ち込んだりして「再生」を押すと読み上げてくれる優れもの。
すぐに慣れてうまく使うことができるようになり、なんならアプリを活用してボケ・ツッコミまで展開し、人間の適応能力の高さに我ながら驚く。
このあたりから人格が回復し始める。

とはいえ、伝わらない
いくら非言語情報が豊かになり、相手の話がよく聞けるとはいえ、必死に表情と身振り手振りを駆使して伝えようとしても、「わ、ごめん、なんて言いたいか全然わからない!」と言われてしまう。非言語情報の限界を知る。
そういう時は諦めてちょっと待ってねと左手をあげつつ、スマホでポチポチ文字を打って見せる。

伝える内容を厳選する
文字で伝える場合、どうしてもラグが出てしまう。
その結果、最短で意思表示をするために、簡潔な表現を一瞬で頭の中で検討してそれを文字に起こす。もしくは地図や画像を表示して画面を指で指すなど、とにかく簡潔で最短の表現方法を探る。
曖昧で繊細なニュアンスは、簡潔な表現では伝わらない。そのせいか、頭の中までかなりクリアになる。声を出せない分、頭の中がもっとごちゃごちゃするかと思ったら、全く逆だった。

めちゃくちゃ疲れやすい
声を出せない以前・以後では明らかに声を出せなくなってからの疲労度合いが桁違いで違う。ついでに頭痛もひどい。
寝ても寝ても寝ても眠くて重い。
副鼻腔炎の症状で頭痛があり、薬が切れると目の奥の鈍痛が耐えがたい。
声が出せないことでエネルギーがセーブできるかと思いきや、むしろ逆で、普段できることがままならないということで、普段よりも消耗してしまうらしい。

すんなり本を読めるようになる
読書は比較的好きなのだがこのところ読書欲がなかなか沸かず、読みたい本だけが積み重なり、積読山がそろそろ崩壊しそうなほど高くなってきていたのだが、久しぶりに新書を一冊サラッと読めた。
聞く機能同様、普段通りに出来る「読む機能」が冴えているような感覚がある。

(2/9追記)

会話に飢える
テキストおよび最小限ひそひそ声のコミュニケーションもそろそろ限界だが、自分ではどうしようもなく会話ができないので会話に飢え始める。
テレビやラジオの中では人々が普段通り会話しているのでありがたい。
普段なら秒で消す面白くないドラマも、人がしゃべっているという一点においてありがたいので付けておく。


何を思ったか

絶望しつつ愉快な気持ちになる
傍から見る限り通行人Aとしては何の遜色もないというパラドックスを抱えた存在であることが愉快だな~と感じる。
全く無敵ではないのだが、「自分だけが分かっているマリオのスター状態」のような心持ちになる。

人々のやさしさが沁みる
意外と飲食店の注文や本屋のレジなどは、言葉を発さなくとも買い物をすることができる。レジで交わされる言葉はコード化されているので、メニューを指さして念を送るように店員さんに熱視線を向けると、こちらの意思を受け取ってくれる。
そしておそらく、その仕草だけで、こちらが何らかの事情で声が出せない人間であることも汲み取ってくれているような表情で応答してくれる。
しゃべれない分アイコンタクトを取ることが増え、目が合う。すると、相手は優しい表情でこちらの言わんとせんことをくみ取り代弁してくれようとする。素直にとてもありがたい。
これは、ケアを受けている感覚なのかな、と思う。
文字通り「障害」がある状態なのである意味当然なのかもしれないが、その気配りは私が普段いわゆる「身体障碍者」に向けているものと同質のものであるようにも感じる。

むしろ孤独感はない
わたしが何を伝えようとしているか「聞こうとしてくれる」。
声を奪われている分、私を無視しないようにしようという意識が相手に働くようで、とても気にかけてくれる。相手が普段よりも一層こちらに注意を向けてくれており、こちらもその気配りの矢印がよく分かる。そのため、孤独感はむしろほとんどなく、ふつうに喋れているときより強く繋がりを感じる。

喋りたいことが特に浮かばない
誰かと会話しているとき(会話ではなくて話しているのを聞いているだけなのだが)、喋りたいことが頭の中にあるのに喋れなくてもどかしい……という状態に陥るかというと、意外にもそうではなくて、ただただ「なるほど」「へえ~」「そっかそっか」というようなただの相槌しか浮かばなくなる。相槌は、表情と頷きで代用できるので、それで十分会話が成り立つ。

誰かの話し声を聞くと安心する
ラジオ、テレビ、友人のお喋り、なんでもいいから誰かの声を聴いていると安心する。話す機能の欠乏を、聞くことで埋めているような感覚がある。

免罪符を得たような不思議な安心感がある
声を出せないので、合法的に会話をさぼれる。
会話ができないので、合意の無言の空間が存在する。
何も気を遣う必要がなく、何も意図しない予見できないことが起こらないという無言の安心感がある。
熱が出て学校を休んだ日の、昼間のワイドショーを見ながらプリンを食べている、あの感覚に似ている。

思い悩まない
そもそものスピード感が、会話>思考>文字の順で起こっていて、つまり普段の自分は何かネタがあったときに、
まず誰かと会話する→会話しながら思考する→思考が文字に収斂する、という順番で流れていく。
その上流の、「会話」が閉ざされてしまった今、後に続く「思考」も一旦停止しているような感覚。
声が出せないという圧倒的なままならなさを前に、仕方ないことは仕方ないわな、と思い知ってしまい、どうしようもないことを思案したところでどうしようもないことは変わらない、考えたって仕方がないと思っているのかもしれない。
ここまで書き連ねて気が付いたが、「何が起こったか」「何を思ったか」とはすなわち「発見」と「感覚」をひたすら記述しているのみで、「思考」はほとんどない。

(2/9追記)
これだけアホみたいに書いておいて「思考」が起こってないというのは嘘八百だなと考え直す。
とはいえ、悩んだとてしょうがないなという境地にいるのは確かで、良くも悪くも諦めがよくなった気がする。


***


ひとまず頭の中に今あることはすべて吐き出されたような気がする。
焦っても仕方ないので、良くも悪くも、今しかできない経験としてある意味楽しんで生活している。
何か新たな発見があれば随時更新する。

扁桃腺摘出手術のことについては、サラッと書いているがこれはこれで大きな現在進行形の事件なので、別に書くことにする。

果たしてどうなるのか……
見守ってくれ~~~、頼むッッ。


(2/9 追記)
どうなるもこうなるも、という日々ではあるが「回復の経緯」を追記。
ひたすら健康を目指して手を尽くしており、一定の回復を見せているものの、万全すっかり元通りの日常が思い出せないほど遠い。
このコントはいつまで続くんだ……という悟りの境地にいる。
遂に10000字を超えました。
あまりに膨大で文字しかないので、公演が終わって一息ついたら写真でも挟もうかなと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?