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宣言。 noteの記事の方向を緩やかに修正し、「小説」に寄せていきたい。 201/360

本日のまとめ:これからは小説「も」 書いていきたい。


noteで記事を書き始めた時
■写真が多い投稿をしている方
■漫画やイラストが主の方
■ポエムのようなものが多い方
■小説の投稿
などいろんな方が居ることは認知していて
さらに、
記事を投稿する人々は「クリエイター」と呼びならされていることも
なんとなくわかっていたのですが

バタコ自身の立ち位置
「エッセー/コラム、こんなコトがあったよレポート/体験談/日記など
事実に忠実に基づいて、それについて思ったことを書く」
ひとだと思ってましたし、
「クリエイター」と言う呼び方、そぐわない~!
と感じていました。

ところが、ここのところややその信念が揺らいできた感覚がありまして・・


そんな折に
まだ自分のなかでは「もやっ」としてて
明晰に言語化できずにいたこと、を
見事に代弁してくださったようなコチラの投稿を目にして

そうそれ!それなんだよね~
って思いました。

ビフォーアフター的にまとめると

A. note投稿開始当初のキモチ

fact=事実でなければ意味がない!自分はエッセーやコラムを書くヒト。ゆるがない。


A→Bの間に起ったこと

自分が書いているよりも何百倍もの影響力や的確さで
「私もそれが言いたかった!」的なメッセージをぶん投げてくる
小説・漫画・写真・音楽のようなものに
触れる機会があった


      ***** 悔しいなぁ、こんなにストレートに
         沢山の人に、瞬時に伝わるんだなぁ~ *****


B. 今のキモチ

小説もしくは音楽やイラストや写真などの「フォーマット」にまとめたほうが
ビシッとパワフルに伝わる場合もかなり多い。

自分もこれから、「事実をそのまま」以外の手段で何かを伝えていく練習をしたい。


(とりあえずは「半自伝的小説」や
「身の回りで経験した出来事を、エッセンスだけ取り上げて
違う場面に置き換えた」ショートショート
のような形式「も」書くことを考えています。)

※書きながら思ったけど
「事実をもとに意見やメッセージを述べる手段そのもの」
に馬力がないのではなく、
要するに「自分の筆力がないだけ」って可能性もあるな・・※




「宣言」は以上です。



以下は「蛇足」な説明文です。



The Kite Runner
という小説を昔読んだことがあります。

邦題「君のためなら千回でも」(2007年)でハリウッド映画化されました (実は見てない・・)



<注:この先、完膚なきまでにネタバレします。
これから映画や小説を楽しみたい方はスルーしてください>

<あらすじ>
アフガニスタン (昔のペルシャ) 出身の主人公アミール
(1960年ごろに生まれたという設定です)
父ババは首都カブールで皆に尊敬される学者
母は美人の大学教授
主人公アミールの幼馴染ハッサンは足の悪い父親アリが
ひとりで育てている、アリの妻は行方不明。

・・実はハッサンは、アミールの父ババの隠し子だった
(足の悪いアリの妻と、ババは不倫していた)
(つまりアミールとハッサンは異母兄弟)
父ババは
アミールが「意気地なし」で「運動神経、鈍い」
のに対し
隠し子で、人前で公言できない息子ハッサンのほうが
「瞬足」「素直で美しい心根」
なのを歯がゆく思っていた。

「君のためなら千回でも」はハッサンがアミールに言ったコトバ。

あるときハッサンは地元ギャングに暴行・強姦される。
それを見ているだけで救うこともできなかったアミールは生涯忘れえぬ後悔と共に生きることになる。
その後、ソ連侵攻後の戦火の中、アメリカに亡命した父ババとアミールに対し、祖国に残ったハッサンは若くして亡くなった。

月日がたち、
アメリカで結婚しても子供ができず、妻と共に不妊治療中だったアミール。
亡くなったハッサンの遺した息子ソーラブを
タリバン政権下のアフガニスタンから引き取り
養子として育てる決意をする。
<あらすじ、おしまい>

戦火で荒廃する前のアフガニスタンの牧歌的美しさ
「ペルシャ」の名の通り、長い歴史をもつ文化的な街だったのが
破壊されてしまったやるせなさ、
人々に尊敬される人物であり、実際にとても「オトコらしい」
正義感の強い男性として描かれている父ババの内なる苦悩
    (アメリカ移住後は洗車で生活費を稼ぐ日々・・
    それでも胸に持った誇りは捨てなかった)
アミールの母やアリの胸の内!ハッサンの不運など
それこそ胸がえぐれるような衝撃的な作品でした。

     ※独身で、可処分時間も
      アタマのなかのメモリ容量もたっぷりあった頃に触れた作品て
      強烈に焼き付いている気がします。
      オバサン最近何を読んでも感動が薄い気もしてきちゃう・・


この本の著者カレド・ホセイニのインタビューをネットで読んだのですが

「読者みんなに聞かれるコト
『実話ですか?』
『どの部分が実話でどのあたりがフィクション?』」

    ←それ!まさに。私も聞きたかった。

「でもね、言えません。絶対に言えません。これだけは」

    ←なるほどね~


昔バタコが大好きでそれこそ擦り切れるまで?読んだ
↑ この本の作者・今村葦子さんも
「あとがき」で同じようなことを述べていました。

「幼い頃、私はいつも大人に聞いていた
『ねぇ、それ、本当に起きたハナシ?』

そして大人になった今、私はこの本を書いたのですが
アナタに同じ質問をされても答えることができません。
私は昔、ちえこにそっくりだけど少し違う子供で
ちえこにそっくりだけどちょっと違う境遇で暮らしていました。
どこまでがほんとうでどこからがお話なのか
残念ながら、はっきりと区別することはできないんです。
ごめんね。」

バタコも常に「それ、ホント?どこまでがフィクション?」
みたいなことを思いながら読む人間です。

だからこそ、その自分の性質に「嘘をつく」ことはできない
というこだわりを持って
記事には事実のみを書く、という信条でやってきたのですが・・

・・今村葦子さんとカレド・ホセイニさんに免じて許していただきたい。

これからの自分が書くことは
小説に寄せていきたいと思っています。
   ※哲学的?なことをいうと
    「事実らしきもの」を「私の目・解釈」を通して
    文字起こしした時点で
    すでに私のフィルターを通した一つのフィクションなのかも
   (引用した記事内でilly入谷聡さんも同じことを言っておられます)
    だから、今までに書いてきたものだって同じこと。
    本質的にこれから何かが変わるわけでは「ない」のかもね。


蛇足な説明、終わり。





アナタがご自分の人生で一番伝えたいことを形にするとしたら
どんな方法で表現しますか?



最後まで読んでいただいてありがとうございます!