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「大人になれないまま」

 ※何日かかけて書いてるので時系列がおかしいとこがあります。悪しからず。

 
 8月が終わろうとしている。今日はRUSHBALLというフェスがあったらしい。去年はPK shampooがリハで銀杏BOYZの「漂流教室」をやったのをふと思い出した。既にこの世にいない友人のことを歌った名曲だ。
 最近「死」について考える。どんなに健康な人でも事故などで突然亡くなる可能性がある。そういうニュースに触れると、日常における死は影を潜めながらも、しっかりとそこに存在しているということを実感する。自分の周りにいる大切な人が亡くなったらどうだろう。想像するだけで恐ろしい。ミッシェル(猫)とお別れした時だってすごく悲しくて、我慢していても涙が溢れる程だった。死を乗り越えるのは難しく、いくら鋼鉄の魂があったところで足りはしない。だから、自分の周りの人には亡くなって欲しくない。自分の周りにいない人も、亡くなったら誰かが悲しむことになるから生きてて欲しい。月並みな表現になってしまったが、これは本当にその通りなんだから仕方ない。
 とは言っても、突き詰めれば別れはいつか絶対に訪れる。これをポジティヴに捉えるとするならば、人間が「永遠」に甘えずに済むように神か悪魔かが仕組んだいたずらのようなものだと折り合いをつけるのが良さそうだ。
 人間が別れに畏怖した時、より深い次元で対象を慈しむ気持ちが姿を見せるのかもしれない。いつかは別れるという前提があって、その別れを可能な限り遠ざけるために、相手を大切にするのではないだろうか、というところでこの話は暫定的な決着とさせていただきたい。

 「このまま僕らは 大人になれないまま」という詩が刺さる。学生時代の諸々の部分となかなか決別できない。大学生としての坂口はもう死んでしまったが、死んだが故に精神部分が地縛霊となって騎射場、郡元、鴨池辺りを彷徨っている気がしてならない。無くしたものだとか、思い通りにいかなかったことだとか、取り返しのつかないことを未だに拾い集めようとして、欠片を今日も探している。もちろんそこにはない。
 あいつにはそろそろ「理想」を冥土の手土産に成仏して貰って、こんな俺を俯瞰するくらいの余裕を見せて欲しいものだ。その方が俺も安心できる。死んだお前とは違ってこれからの人生を謳歌するつもりだし、不細工な10代を笑い返せるくらいの景色を目に焼き付けてやるからな。

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