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「ヘビとサソリ」ヘビの章

 蛇蝎の如く嫌う、あるいは、嫌われる、という表現がある。ヘビとサソリが、当たり前のように嫌われ者の代表選手になっているのは、何故なのか。ここでの嫌うというのが生理的嫌悪感であることに注目したい。人は、獅子虎の如く忌み嫌うとは、決して言わないのである。
 もちろんヘビやサソリをペットにする人もいるだろうが、極めて少数であり、それは進化のちょっとした揺らぎのようなものでないのか、敢えて生理的嫌悪感を克服するかのような。やはり、蛇蝎の如く嫌われるのは、ヘビとサソリなのである。
 生理的嫌悪感とは何なのか……またしても、ここに帰ってくる。それは集合無意識なのか、それとも認知バイアスなのか。ヘビやサソリの危険を避けるような進化心理学的な適応であるという解釈を捻り出したことがあるけれど、だとしたら、たとえば熊に生理的嫌悪を感じないのは何故なのかという疑問に行き当たる。
 しかし、こう考えたらどうだろう、熊の脅威には、そもそも生理的嫌悪感など感じるまでもない、と。
 そう、小さくてその存在に気づきにくく、知らぬ間にコソコソ近寄ってきて致命的な悪さをする、そんな奴らこそが嫌悪の的になるではないか。人間でもそうだ。逆に言うと、黒い目出し帽を被って、バットを振りかぶって襲いかかってくる輩には、とくに生理的嫌悪感を感じることは必要もないのである。
 あるいは又、こうも考えられる。生物が共通の先祖から進化してゆくその枝分かれの道程にあって、ヘビとサソリは人類と近すぎず遠すぎず絶妙な位置どりにあるのだ、と。ヒトから遠く擬人化しづらい一方で、あんまり遠すぎないから比喩には出てくる。たとえば、ヒヒジジイとかタヌキオヤジというと、アレゴリーの領域であるが、ゾウリムシ女とかアメーバ婆ばあとなると、これはもはや姿も性質もまるで思い浮かばぬのだから、嫌悪も感じることがない。やはりいみじくも、ヘビ男とかサソリ人間こそが、ホラーやSFなどの領域にあって、人の嫌悪を唆るのである。

 たとえば、学生時代の後輩の倉林くん、おっさん臭い老け顔にオカッパの彼は、凶暴でもなければ邪悪でもないのに、ただ何となく側に寄られるのが嫌なのである。それなのに、そんなこちらの思いを読み取った上で踏み躙るかのように、やすやすとパーソナルスペースへ立ち入ってくるのだった。「先輩! 先輩!」と。
 近い。話しかけてくるとき、その物理的な距離が、通常の間合いより一歩分近い。邪険にしてはならないと思いつつも、思わず一歩引き下がると、更に一歩踏み込んでくる。
 姿勢は正しいのに首の付き方が前にズレているようで、刈り上げの青いうなじが肩にじかに接している。廊下を曲がるときには直角に、階段の上り下りはギクシャクしている。
「先輩!」と、笑顔もなくこちらの目をまっすぐ見つめるその視線に悪意は感じられないのだが、何故そんなにまじまじと見るのか。観察され、値踏みされているような気がして、耐えられない……。
 果たして言葉使いも下品極まりなく、
「先輩! 先輩! ◯◯ちゃんのパイオツ、デカくないですか?」などと、真顔で訊いてきたりするのだ。
 それが、どうも男同士の気の置けない猥談、肩の凝らないスケベ話といった風には捉えられない。そもそも倉林くんは盛んに話しかけてくるけれど、そこに仲間意識はあったのか、よくわからない。
 で、何と答えて良いのか、途方に暮れることになる。百歩譲って同意を求めるならわかるが、なんで疑問形なのか。自分でつきかねる判断を人に委ねているということでもあるまい。しかも、その◯◯ちゃんというのが、アイドルでもマンガのキャラでもなく、サークルの後輩であって、その胸元を臆面もなく観察しているのが気色悪い。
 心の底から嫌悪していることを気取られてはならぬと、「そだねー」とでも答えておく。
 しかし、どういうわけか不思議と女性に嫌われるということもなく、「昨夜はお持ち帰りしました!」などとしれっと言う。嘘か真か、これも返答に窮する。
「へー、やるじゃん」とでも答えて視線をそらせる他ない。
 一体、倉林くんは、ある種のヘビやサソリのように猛毒を秘めていたのだろうか。わからぬ、としか言いようがない。しかし、自分語りの極端に少ない男で、これは自分大好き人間の延々と続くワンマンショーの観客にされることを考えたら美徳といっても良い特質なのだが、出身地も現住所も、家族が何をしているのかも、誰一人としても聞かされていないのである。
「そういえば、あいつ学科は?」
「学科どころか、学部も知らぬ……」
「経済学部と言ってるけど、講義で姿を見たことがないんだよな」
「図書館でも見ないね」
 図書館に入館するには、学生証が必要なのである。
「そもそもあいつ、何歳なんだ? 妙に老けて見えるけど、本当に俺たちより年下なのか」
 噂話をしていて、情報量のあまりの少なさに男たちは思わず顔を見合わせた。
「ひょっとしたら、学生じゃないのじゃないか? 公安のスパイとか」
「なんでノンポリの俺らのところに? 学生じゃないどころか、日本人じゃないかもしれんぞ。誰もが知る国民的人気アニメ番組が話題になっても、あいつ全然知らないんだよな」
「まさか外国のスパイってことは……」
「いや、エイリアンが人間に化けているのさ。本格的な侵略を前に人間を研究してるんだ。ほら、あの視線」
「なんで俺らのところに?」
「いやいや、あのぎこちない動作は、間違いなくロボットだよ。政府の実験だろう」
「だからなんで俺らのところに?」
 たしかに不気味の谷現象といって、ロボットの姿形がしだいに人間に近づくにつれて、不気味さは増してゆくという。そういうことだったのか。
 ミステリアスな倉林くんの話題で言いたい放題に盛り上がってしばらくして、その姿はキャンパスからふっつりと消えてしまった。正体を見破られて、活動の場を別の大学に移したのかもしれないし、故郷の星へ帰ったのかもしれない。あるいは又、研究所で改良されているのか。
 本当のところ、一体、何者だったのか。……

(続く)

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