占いについて #05

 ここで扱う占いとは、非合理的で根拠を著しく欠いた未来予測のことである。たとえば、夢のお告げ、予知夢なども根拠のない未来像ということでは、占いに近いと言える。人の見た夢の意味を精神分析的ではなく、旧約聖書のヨセフやダニエルのように未来像として読み解くというのも、占いの範疇に属するだろう。
 それは範疇としてはmagic(呪術)に属するかもしれないけれど、必ずしもoracle(託宣)とは限らず、forutune-telling=(どこか、何かに表されているが、覆われている)運命・宿命・運勢を(覆いをとって読み取り、そして)語ることである。前提とされるのは、世界は偶然に支配されているのではなく、人には定められた運命があるということ、そして場合によっては運気を変えることが可能であるということ。
 占いは、朴術(etc.タロットやおみくじなど)、相術(手相や姓名判断)、命術(星座や四柱推命)の三種類に分類されるという。相術と命術は実は統計によるという話を聞いたことがあるけれど、そのようなデータを見たことがないし、現在集計されているという話も聞かない。
 占いは文化人類学のフィールドワークの対象となる先住民の共同体から先進国まで共通して見られる、人類に普遍的なミームと言える。
 同じように普遍的なミームと言える宗教は、原始的なアニミズムや供犠から個人的な救済や社会の倫理、文化的なアイデンティティに至るまで、社会の規模や下部構造に規定されているように見える。それは歴史的に変化し得る。一方、占いは古代中国の甲骨文字だろうが、西洋中世の占星術だろうが、はたまた現代の携帯番号占いだろうが、根底的には同じであって、下部構造による規定はより少なく(確かに古代には電話番号は存在しなかったが)、歴史的な変化はほとんど見られない。
 常に現在を生きている他の動物とは違って、過去に縛られ未来を指向する動物であるヒトは、人間関係(恋愛を含む)・病気・金銭問題に悩みながら、現在の閉塞に直面し、将来への不安に置かれるとき、行動の指針を求める。占いは、充分アドバイス足り得るし(たとえばおみくじなら、初心に返れだの、信心せよなど無難なもの)、警告を発し(手相なら、水難の相だとか)、誤ったものであるにせよ時には人に希望を与える(待ち人、来るだとか、失せ物、出るだとか、病事、平癒すだとか)。
 こうなると、占いへの傾向そのものが、人間の認知のバイアスとしてあると言いたくもなってくる。それはつまり、未来を知りたいという願望と、その未来が定まっており、知ることが可能である考える傾向である。そして、未来は書かれている、亀の甲羅のヒビ、カードの組み合わせ、水晶の閃き、星辰、たまたま選んだ紙切れやスティックなどに。そして、読み取られるのを待っているのである。
 経験主義的な考え方では、タブラ・ラサ(何も刻まれていない石板)といって、人は言わば白紙状態で生まれてきて、経験や学習を重ねることによってそこに文字が書かれてゆくように知識を得ることになる。生得説への批判である。たしかにヒトは、いやある種の動物だって、学習によって行動を変えることができるだろうし、真理の概念、善悪の判断基準は時代や場所により変化する。
 認知的バイアスやアプリオリな心理的傾向を研究する認知心理学や進化心理学を、このタブラ・ラサ説と殊更に対立させる必要はない。言語は本能か、それとも発明か、ヘビを嫌うのは生理的な理由からか、経験的な理由からか、というように問題を単純な二元論的対立として捉えることこそ、アプリオリなバイアスではないのか。
 タブラ・ラサ説と認知的バイアス説は同時並行的に、言わば異なるレベルで並立し得る。教育の重要性を誰しもが認めるであろうが、他方決して変えることができない偏見がある。占いに啓蒙の惨めな限界を見る。
 フランスの文化人類学者が、いわゆる「未開の」文化における野生の思考を科学と対比しながら、因果関係を想定しないのではなく、逆に想定しすぎてしまうのだと指摘している。不幸な経験や病は誰か他人の妖術のせいであり、災害には何か超越的な存在の意志が想定される。しかし、ある事象の背後には原因があり、それを解明し対処することができると考える点では、科学と同じではないだろうか。一切が偶然で条理を欠いて生起すると見なすなら、ヒトは如何なる指針を得ることもできず、途方に暮れてしまうだろう。

✴︎

 会社で不幸が続き、同じフロアで連続して三人の方が亡くなった。二人は癌で、一人は事故だった。病気の場合は生活習慣や遺伝的疾患、事故ならば先方かこちらか、あるいは互いの不注意、もしくは全くの不運(偶然)などと原因が想定されるけれども、一方で無遠慮に人の死を詮索することは憚られもする。
 だというのに稲荷山先輩(彼のことを忘れていたわけではないし、忘れられるはずもない)は、これらの身近な死(彼にとって運命であり不幸な定めなのだろう)に過剰なまでに反応するのだった。
「全てには理由がある」などと興奮して語り出す。
「因果応報ってわかるか?」
 上から目線でこう言われたとき、夜中の意味不明な電話や机上の領域侵犯にもなんとか耐えてきたぼくの堪忍袋の緒が、とうとうプツンと切れてしまった。

(続く)

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