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記憶の動物園 #豚

 どうやら私は、豚が好きな子どもだったらしい。らしい、というのは、全く記憶にないからだが、親がそう言うのだから間違いないだろう。

 曰く、「朝から晩まで、ブタブタブタ」と言い続けていた、と。

 当時はメタファーなど知る由もない年齢だから、親のことをそう呼んでいたはずはない。

 私が確実に覚えているのは、自分が牛好きな子どもだったことである。念のために言っておくと、幼少期の私を魅了したのは、ビーフやポークではなく(今はむしろそうなのだが)、つまり食品としてではなく、動物としての牛と豚だったということである。

 市立動物園に連れて行かれると、猛獣・巨獣などには目もくれず、日がな一日ひたすらバイソンの群れに見惚れていたので、呆れた家族に放置されたほどである。

 獅子でも虎でも狼でもなく、なに故にかくも牛に惹かれていたのか。ツノである、格好の良いツノこそが幼い私の心を掴んで離さなかったのである。ああ、ぼくにもあんなツノが生えていたら! ちなみにフランス語で「ツノを得る」というのは、「女房を寝取られる」という意味らしいが、ここでは関係がない。

 牛の仲間たちは熱帯・寒帯・高山・泥の中などあらゆる環境に適応して、形態といい、ツノといい、実に多種多様だ。肩と首の筋肉が盛り上がったバイソン、泥浴びする水牛、前髪で顔の隠れるヤク、あんなツノ、こんなツノ、そんなツノ、図鑑を広げて世界中の牛の写真を見ているだけで興奮を禁じ得ない。ツノを持たないブタどもに出る幕などない!

 そうして月日は流れ、地方都市の団地から田舎のニュータウンに転居して、自転車通学の高校への近道は丘をいくつも越えてゆく。その坂しかないようなルートの途中、竹藪の丘と丘との間の平地の少し奥まったところに木造の牛舎があった。

 冷え込んだ冬の朝、コンクリで舗装された細い山道脇の牛糞の山から濛々と湯気が立っていたことを覚えている。三年間、毎日毎日この牛舎のすぐ前を走りながら、ただの一度も牛の姿を見に行ったことはなかったし、行きたいと思ったこともない。ニュータウンの一軒家に越すと同時に親にねだって犬を飼ってもらったので、朝夕犬の散歩に勤しんでいた頃の話である。牛だの、豚だのに興味などあろうはずがない。

 だから、昼休みに弁当を食ったあと、友だちが唐突に「ブタでも見に行くか」と言ったとき、ひどく困惑せざるを得なかった。

「ブタ? なんでブタ?」
「え? 別にそこにブタがおるから」
「そんなにブタを見たいんか?」
「えっ、見たくないのん?」
「うん、とくに。ブタのことはまったく考えへんな」
「ほな一人で行くわ」
「は、今から?」
 放課後、足を伸ばしてどこかの農家にでも行くのかと思ったら、なんと学校敷地内にいるという。
「ウソやろ、ウソつけ」
「焼きそばパン賭けるか?」
「ほんまか!」

 この高校には普通科、商業科(凶暴なので絶対に目を合わせてはいけない、襲われたら死んだふりをすれば良いと言われていた)、農業科があり、授業の一環としてブタを飼育していたのである。
 友だちについてゆくと、学食の裏の農業科の菜園の中に豚小屋があって、木の柵で囲われたスペースで肌色のブタが二頭寄り添いのんびり日向ぼっこしていた。私たち以外にもモノ好きの生徒が柵にもたれかかって、ただのブタをしげしげと観察している。のどかだ……。

「ブタやん!」紛れもない。
「そやから、さっきから何度も……」

 自分の通っている学校がブタを飼育していることビックリし、そんなことすら知らなかったのか俺は、とガッカリした。そして、ブタを飼ってるようなド田舎の学校に通ってるのか俺は、とさらにガックリきた。今書いていて、愕然とするぐらいである。

 ビックリ、ガッカリ、ガックリであるが、ここまで足を運んだのは、三年間でこのとき一度切りであった。ブタはブタだ。

 最近、韓流ドラマを観ていて、ラスボス的な大企業の会長が「豚は犬より賢いのに、豚を食べることを何とも思わない者が、犬を食べることに反対する」と言ったので、仰天してしまった。

 どういう文脈のセリフだったか覚えていないが、犬を食べるシーンでなかったことは確かである。調べてみると、真偽不明のそんな情報が溢れている。なるほど、二十代の頃、伊豆の山の中にあるイノシシ牧場(閉園)に行ったとき(やはり三つ子の魂、であろうか)、イノシシ科の知能の高さに舌を巻いたことを思い出す。ここでは、様々な芸を披露した(させられていた)。まあ輪っかを潜るぐらいなら想定内だが、舞台で分福茶釜の芝居をした、狸ではなく猪がである。バランス良く茶釜を背負い傘を持って(さすがに咥えてだったかな?)綱渡りまでこなす。競馬ならぬ競猪もあった。いやもう拍手喝采である。そしてなんの疑問も抱くことなく、併設の食堂でぼたん鍋を食って帰った。

 豚は賢い。愚かな人を馬鹿と言っても、牛豚とは呼ばない。犬より賢いかわからぬが、そもそも動物の知性を人間的な尺度で測るのが適当なのかどうかもわからない。鏡に映った自分を認識する、道具を使って手の届かない餌をとる、人を見分ける、迷路を脱出する、SNSでプライベートを晒す、NOTEに文章を書く、そんなことばかりが知性の証明と言えるのか。

 屠殺場へ運ばれてゆく豚が、必死に抵抗する映像を見たことがある。単なる移動なら従順に受け入れるのに、まるで行き先を知っているかのようにジタバタあがくのである。結局足を縛られ逆さ吊りにされて連行されるのだが、壮絶な悲鳴を上げていた。殺されることを理解しているのだ。

 また別の映像では野豚の群れが川で水を呑んでいると、突然ワニが水飛沫を上げてが襲いかかり、不運な一頭に喰らいついた。一瞬の出来事である。水の中へと引き込まれながら、絶叫していた。仲間たちはなすすべもなく水辺で呆然と佇んでいる。

 彼らは自分の死も、仲間の死も理解できるし、恐れてもいる。彼らの情動は細やかで、ペットにして可愛がる人もいるぐらいである。

 鯨が頭が良いから食べてはならないというのなら、豚はどうなるのか。食肉用に改良された家畜だから食べて良いのか、反捕鯨団体の方々に訊いてみたいところである。

 なんてことを思ったりしないでもないけれど、鯨も豚も食べ物として好き(好物)なので、断念するつもりは今のところ全くありません。かと言って、犬肉を食べようとも思いませんが。

 さて、これから友だちと待ち合わせて鹿児島産黒豚の豚しゃぶで一杯やります。では、いずれまた。

(了)

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