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【エッセイ】小説のポエム化について
私が小説のポエム化と呼んでる現象(?)について、ちょっと語ってみたい。
かつてその発言がポエムと揶揄された環境大臣がいたけれど、あれとは関係がない。記者の質問に対して、見当違い、無内容、空虚、同義反復の返答を繰り返し、その言葉に論理やリアリティ、現状分析に基づく具体的対策の提示が欠けていることから、「ポエム」と呼ばれただけのことである。
たしかにポエムに、論理やリアリティ、現状分析に基づく具体的対策の提示を求める者などいない。
それに対して英詩の研究者(だったか)が、ポエムという言葉を批判の対象のメタファーとして安易に使って欲しくないと苦言を呈したりもした。
そう、ポエムは訳せば「詩」ということになるけれど、「詩」と「ポエム」では与える印象が、なぜかだいぶ異なっている。それは、誰も環境大臣を「詩人」と呼ばず、彼の発言を「詩的」と評さなかったことからも分かる。しかし、もし仮にそう評したとしても、それは皮肉であって、本来の「詩」の意味するところからはズレている。
詩とポエムでは意味が微妙にズレていて、後者に何かネガティブなニュアンスがあるのは何故なのか。それはちょっと私には荷が重い疑問である。喜劇をコメディと呼んでもそこに皮肉はなく、医者をドクターと呼んでも揶揄でも何でもない。
しかし、我が国では、伝統的に和歌という定型文語詩と輸入されたものである漢詩(定型韻文詩)が並行的に存在し続け、更に近代になって西洋の韻文詩が翻訳輸入され、やがて定型と韻から解放された「現代詩」が生まれたという事情と無関係ではあるまい。
定型と韻から解放された詩的口語表現が、少なくとも当初は文学的実験であった詩と、平易で主観的かつ叙情的ポエムに分岐したと言えないだろうか。そして、どうも後者の方が、決して尊敬されることはないが需要があったということなのだろう。
平易な主観的・叙情的ポエムは歌謡曲の陳腐な歌詞(時に韻を踏む)に通じてゆく。メロディのある歌ならば特に苦もなく聞き流せるものが、活字で読むとどうにもむず痒いものになるということはある。新聞の投稿欄(最近は知らないが)でも歌壇・俳壇など定型詩ならそれなりに読めるのに、口語自由詩となると、目も当てられなくなる。それから(最近は知らないが)、男性誌のグラビアのポエム。アイドルの水着(ハッキリ言うと性的な眼差しの対象)と詩(主観的叙情的ポエム)の珍妙なコラボレーション。あの詩を最初から最後まで読んだことがある人って(私以外に)いるのか?
さて、ここからが本題である。私が言う小説のポエム化とは、散文詩ではないし、散文の段階的韻文化ということでもなく、やはりネガティブなニュアンスが含まれている。要は散文がポエムに蝕まれてゆく現象なのだから、具体例を見てもらえば話が早い。それも無名なものではなく、世評の高かったものから。
先ずは本屋大賞を受賞した宮下奈都『羊と鋼の森』から。愛読者の方は、不愉快になるかもしれないので読まないで頂きたい。
森の匂いがした。……夜になりかける時間の森の匂い。
念のため、森のシーンではない。
大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。
語り手の視覚には何の障害もない設定である。
自分が迷子で、神様を求めてさまよっていたのだとわかる。……この音を求めていたのだ、と思う。この音があれば生きていける、とさえ思う。
突然神様が出てきて面喰らうが、別に宗教的な話ではいし、主人公の信仰がテーマにもなっていない。
何度も繰り返す、朝。生まれたての瑞々しさと、凛々しさ。
ほんとうだ、祝っている。
ぼくにも聞こえた。祝福の声。
ここのところちょっと意味が掴めないが、幻聴かもしれない。
そう、小説のポエム化とは、読点の多用、リフレイン、体言止め、倒置法などの使用による美化・詩化作用で、夾雑物を排除してpureな印象をもたらすつもりだと思われる。陳腐な比喩、ゾワッとするオノマトペの使用なども当てはまるだろう。
ちなみに、ウェブでこの作品のレビューを漁っていて特に文章を評したものでは「綺麗で美しい文章」とか「静かな無駄のない文体」など称賛の言葉がある一方で、「語彙が少なくて、風、森、美しい…の繰り返しだけ」なんて辛辣な意見もあった。「随所に散りばめられた詩的表現」と、肯定的であるにせよ、ポエム化を指摘しているレビューもある。
次は全米図書賞翻訳部門を受賞し、ベストセラーになった柳美里『JR上野駅公園口』から。
波音が高くなった。暗闇の中に一人で立っていた。光は照らすのではない。照らすものを見つけるだけだ。そして、自分が光を見つけることはない。ずっと暗闇のままだ。
残った。ここに残っているのは、なに? 疲れ、の感覚は、ある。いつも、疲れていた。疲れていない時はなかった。……はっきり生きることなく、ただ生きていた気がする。でも、終わった。
この二人の作家の代表作には一見共通点がないように見える。『羊と鋼の森』(ピアノのメタファー)の主人公はピアノの調律師を目指す少年、『JR上野駅公園口』の主人公は人生に絶望したような東北出身のホームレスである。前者では森、後者では海が重要なモチーフと言えるかもしれない。しかし主人公(語り手)がある重要な出会いを果たすとき、悲しみが訪れたとき、悟りのきっかけのようなもの(気づき?)を得るときなどに散文が突如ポエム化するという一致がある。
とアレコレ述べてきたが、考えてみれば、私のような者が、プロフェッショナルの、それもベストセラー作家の文章を偉そう論じるというのは、実に身の程知らずなことだ。むしろ、謙虚に学ぶべきではないのか。そうか、ここに気づきが、悟りがある。
一歩ずつ、一足ずつ、確かめながら近づいていく。その道のりを大事に進むから、足跡が残る。いつか迷って戻ったときに、足跡が目印になる。
何でもないと思っていた小説の中で、何でもないと思っていた文章に、すべてがあったのだと思う。隠されていたのでさえなく、ただ見つけられなかっただけ。安心して、よかったのだ。僕には何もなくても、美しいものも、ポエムも、もともと小説に溶けている。
皆様の読書体験にもきっとある「小説のポエム化」、よろしければお聞かせください。
波音が高くなった
暗闇の中で一人立っていた
自分が光を見つけることはないのか?
ずっと暗闇のままなのか?
森の匂いがした
夜の、明ける時間の、森の匂い
何度も繰り返す朝
生まれたての瑞々しさと凛々しさ
自分がポエムを求めてさまよっていたのだとわかる
ポエムを求めていた、と思う
ポエムがあれば生きていける、とさえ思う
でも、疲れた
いつも、疲れていた
疲れていない時はなかった
もう終わりだ
(了)
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