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【掌篇】海辺の町

 ローカル線を乗り継いだその駅は、駅員だけでなく、客も僕以外には誰一人いなくて、本当に文字通りの無人駅だった。プラットフォームの屋根のない吹き曝しの端部には、アスファルトのひび割れから雑草が生え出ていた。

 降りた途端に潮の香りが鼻をついた。とくに高い建物など見当たらないけれど、緑の丘が視界を遮ってここからは海は見えない。

 この町の老人ホームに、父が入所しているのだ。世界的なパンデミックにより面会が謝絶され、この三年間はオンラインでしか会話していなかったので、実に久しぶりの対面になる。でも、僕は乗り気ではなかった。二人の仲は昔から良好ではなかったから、できることなら、オンラインだけの関係に留めておきたかった程だ。

 かなり控えめに言うと、父は家庭を顧みない人だった。でも、それも昔の話だ。たぶん、母の死が応えたんだと思う。

 日曜日の午後だというのに、駅前の商店はどれもシャッターを下ろして、広場には人っ子一人おらず、タクシーも停まっていない。バスは一時間に一本、歩いた方が早そうだ。スマホの地図アプリの案内を頼りに、鄙びた田舎というよりは、沈滞した町をてくてく歩いてゆくが、誰ともすれ違わない。

 住宅地を抜けると、久しく手の入っていないような農地が広がり、人の背丈ほどの雑草が繁茂している。そんな休耕地の間を続くアスファルトの道路はまっすぐで立派であるけれど、歩道はない。だけど、車など一台も走っていないから、問題ない。

 丘の麓の老人ホームは、和洋折衷の温泉旅館のように見える。どういうわけか、エントランスの自動扉は、僕が前に立ってもまったく反応しなかった。駐車場には古びた介護車が三台停まっているだけで、他に訪問者はいないようだ。

 ガラス戸を叩くのも変な感じなので、裏へと回った。そこには車椅子で通れる緩やかな起伏のあるプロムナードが人工の池や東屋などを巡っている。だけど、陰気な曇り空で、気温も低いせいか、誰も外には出ていなかった。ガラス越しに見ると、ホールも食堂もガランとして、鍵がかかっている。どうもおかしい。携帯で電話してみるが、呼び出し音が鳴りっぱなしである。

 この寒空に要介護の老人たちとヘルパーが総出でピクニックにでも出かけるとは思われない。まさか海辺へ散歩に出かけたとか。全員で? 三階の父の部屋から青い水平線を見たことを思い出すが、あれは一体何年前のことだったか。

 ひょっとしたら、パンデミックで全滅したとか。

 おかしいなあ、不思議だなあと首をひねるのだけれど、僕はそれほど拘らなかった。こういうことも現実にはたまには起こるのだろう。それとも、現実ではないとか。実を言うと、父と顔を会わせることが億劫だったので、助かったという思いが強かった。それで踵を返して駅へ戻った。

 ここへ来る電車では、自分以外に乗客はいただろうかと振り返ってみると、スマホをいじってばかりで確かな記憶は残っていない。帰りの電車の車両にも、都心へ近づくまでは僕以外に乗客はいなかった。とても奇妙な日曜日だ。

 もし、ホームのみんなが消えてしまったのだとしたら、家計がずいぶん助かることになるな、そんなことも思った。

 家に帰ると、もう夕飯の時刻だった。誰もいない暗い家を想像して恐れていたけれど、もちろん、それは杞憂であって、ちゃんと妻が食事を用意して待っていてくれた。ささやかながらも、一家団欒である。

「おじいちゃんは元気だった?」ご飯を頬張りながらTVのアニメを観ていた息子が、不意に真顔になって訊いてきた。
「うん、元気だったよ」なんとなく僕は嘘をついた。
「ぼく、おじいちゃんに会いたいな」
「そうだね、いつかいっしょに会いに行こうね」
 そう答えながらも、僕は息子の無邪気な言葉を素直に信じることができず、何か裏があるのではないかと疑っているのだった。

(了)

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