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テラスハウスという番組への批判はお門違い

ネットニュースなどですでに知っている方も多いと思うが、Netflixで放送されているテラスハウスの出演者が1人、ネットでの誹謗中傷を受けて自ら命を絶ってしまった。

そのニュースを受けて、日本のテラスハウス視聴者だけでなく有名スポーツ選手や海外の視聴者が本件についてのコメントをしたり、国内だけでなく海外のメディアでも取り上げられたりと大きな話題となっている。

そして、なぜかテラスハウスという番組への批判がたくさん挙がっている。(といってもTwitter上でそういう意見が多く見られたというだけなのだが。)

今回は、リアリティ番組であるテラスハウスへの批判はお門違いではないかという主張のもと、思ったことや感じたことを書いていこうと思う。ちなみにぼくはテラスハウスの感想動画をYouTubeに投稿したことがあるくらいにはテラスハウスファンである。



テラスハウスへの批判としてよく取り上げられるのは次の2つである。

・「台本は一切ありません」はウソだ!番組の展開はスタッフの意志が100%だ!」という、以前からある批判

・「問題の起点となるプラットフォームが悪い!」という批判

番組に対するこれら2つの批判について、簡潔に反論していきたいと思う。



まず、1つ目の批判

・「台本は一切ありません」はウソだ!番組の展開はスタッフの意志が100%だ!という、以前からある批判

「『台本は一切ありません』で有名なテラスハウスだけど実際は台本によるストーリー展開がある!そして『コスチューム事件』は台本通りであり、台本のせいで誹謗中傷が沸き起こった!その結果として大きな騒動になったのだ!」ということを言う人がTwitterという動物園にはたくさんいる。だが、よくよく考えてほしい。

そもそも『コスチューム事件』が台本通りなのであれば、批判の的となった出演者に対して仮に罵詈雑言が放たれたとしても、批判を受ける本人にはそこまでのダメージはないはず。なぜなら台本通りに行動したことが批判されているだけだからだ。映画で悪役を演じる俳優に対して映画内での振る舞いについて誹謗中傷を投げかけたとしても、俳優本人には一切ダメージがないのと同じだ。演じているだけなのだから。

でも実際はちがう。もちろんスタッフによる多少の介入はあるにせよ、出演者はテラスハウスというお皿の上で、自分本位で行動をしていたからこそ、そこでの振る舞いについて批判をされるとそれを自分の人格への攻撃だと捉え、ダメージを被るのだ。

だから今回の騒動は、台本があったから起こったのではなく、むしろ「台本は一切なかった」からこそ起こった出来事だ。(だからといって「台本は一切ありません」ということ自体が問題なのではないのだが。)

つぎに、2つ目の批判

・問題の起点となるプラットフォームが悪い!という批判

この批判は非常に面白い。テラスハウスの出演者に対してネットいじめをする人間が使うプラットフォームは基本的にTwitterやInstagramといったSNSだ。

悪玉菌を頭の中でたくさん飼っている人類種がSNSの匿名アカウントを使って、格好の的となる人間を見つけて誹謗中傷を繰り返すという汚い文化は2ちゃんねるが出来た頃にはすでに明文化されたものだ。

にも関わらず、今回の件で批判の的となるのはTwitterでもInstagramでもなくテラスハウスというテレビショーだ。とても滑稽である。

たしかにテラスハウスというお皿は台本ありきのテレビ番組とちがって、人間の私生活を垂れ流しにする部分がある。それは見方を変えれば面白味にもなれば弱点にもなる。今回は間違いなくその部分が弱点として露わとなった。

だが、その一点だけでテラスハウスという番組の存在自体を批判するのは無理がありすぎる。

誹謗中傷のお皿となっているSNSを使って、出演者のお皿となるテラスハウスを批判する人がたくさんいるのは、ほとんどギャグみたいなものだとおもう。しかもとてもわかりにくいギャグだ。

そもそも他人の私生活を覗き見てイジメをするというのは「テラスハウス」や「SNS」に始まった話ではない。

プライベートを充実させるために有給休暇を取ったことを理由に部下が上司にパワハラされるというのは令和の今でもあるっぽいし、学校の教室という狭い檻に同世代の人間をぶち込んで他の人間と違った性質を持つ人は恥さらしとして吊し上げられるというものは日本の義務教育で漫然と行われている。

そんなことを考えると問題の根源は「テラスハウス」という番組ではないということがわかるだろう。テラスハウスというテレビショーがあろうがなかろうが、今もどこかで汚い文化の餌食となっている人間はたくさんいるのだ。オンラインでもオフラインでも。



という感じでテラスハウスの一件に関して思ったことや感じたことをつらつらと書いたのだが、一貫して伝えたいのは「リアリティ番組であるテラスハウスへの批判はお門違いではないか」ということだ。

テラスハウスを台本ありの茶番番組だと批判する人は以前からあったものだが、テラスハウスはむしろ日本のテレビ業界のテロップだらけの茶番をぶち壊すデザイン性の高い番組なのだ。それは場をテレビからNetflixへ移してからも同じだ。

おそらく今回の件で放送を続けるのは難しくなるだろう。放送を続けることを世間が許さないだろう。しかしそれでもぼくは、「テラスハウスは素晴らしい番組だ」と言いたい。

テラスハウスというものは、視聴者が他人の生活を垣間見ることで、自分自身の「生きること」について考えさせられるという哲学的な要素のあるものだと思っている。脳内に悪玉菌を飼育している人類種によって最悪の事態は起こってしまったものの、番組自体は厚みのある素晴らしいコンテンツだった。もし番組が終わってしまうのであれば、テラスハウスありがとう、と言いたい。



里芋です。