見出し画像

日記

9月17日。曇り。朝はフルグラ。昼は冷食の坦々麺。夜は米と味噌汁と豚キムチ炒め。辛いものばかり食べてると体に良くない。

今日は朝7時に起きたらすぐ外出して、郵便ポストに行くついでに散歩した。この時間に外に出るの久々で、この時間はスーツや制服姿の人ばかりだと思い込んでたけど、そうじゃない人も半分ぐらいいた。近所の人がタチアオイをついに諦めたようだった。どういう理由か知らないけど見るたびにタチアオイが縮められていたのだ。散歩の楽しみの一つだったので少し寂しい。

花といえば9日の重陽の節句で菊の花を部屋で挿してたけど、もう完全に首が折れている。切り花って2週間ぐらい持つと聞いた。切り花ってよく知らないのに調べもしなかった。

あとは人から課題が出されたので課題のために本で調べた。課題に取り組むのは私の心にとって優しいと思えるし、認めたくないけど私は仕事してる方が楽だ。

読んだ本の話。長くなった。

大沼保昭(聞き手:江川紹子)『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』を読み終わった。知らないことが多くて良かった。著者は村山内閣のあたりでアジア女性基金の設立等のために尽力した人物。最初の東京裁判についての話からいきなりまどろっこしい印象があったけど、後書きに色々な専門家に読んでもらって出た意見を最大限尊重したと書いてあって、まじめだった。

内容は第二次世界大戦で起きた残虐行為がどのように捉えられていったか・補償されていったかを平易に整理して、現代の話題も出しながら「よりましな悪」を求めて現実的に積み重ねていく必要性を説くものだった。著者の主張はたぶん今風に言えば偏っているけど、その自覚もあってか、できるだけ反対側の意見を取り込もうという意識があるように思えた。私はそういう人いいなと思う。それでもAmazonレビューは支持と不支持に割れてて、真ん中でいるのって難しいんだなと改めて思った。

立場を二つに分けてどっちかでいることが、選んだ責任を自分で引き受けているようでかっこよく思える・安心できるというのは、ここ数年で気持ちとして分かるようになった。私が『身近に”当事者”がいる側』になったからだ。雑にその話題に触れられようもんなら私は義憤でブチ切れられる。私は「それが少しでもあの人のためになるなら」と簡単に切れてしまえる。

しかも私は、そんな義憤にほとんど関係がない人との会話のなかで、私がその立場であるってことを早めに示すことがどういう影響を及ぼすか、しばらく想像してこなかった。こんな社会が許せないし示すことが何より必要なのだと強く思ってたから。でも以前あやすように受け流されて衝撃だった。示したところで聞いてもらえなかったら意味がない。

じゃあどうすればいいんだろうなってときに今回読んだ本の態度は参考にできるのかもしれない。つまり「向こう側」の理屈を自分で丁寧に説明できるようになってみたらいいのかもしれない。嫌だな〜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?