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『君たちはどう生きるか』の感想。

 会社を途中で抜けて、『君たちはどう生きるか』を観て、そのまま用事を二つこなして夏祭りまで行って疲れているので、つらつらと書く。

 想像していた通りだが、アニメーションとしては面白くなかった。『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』もそうだったが、『千と千尋の神隠し』の大成功以降、宮崎駿はストーリーにあまり興味がなくなったように思える。
 話の流れが不自然でも、迸るイメージが素晴らしければ確かに一つの作品になりうる。(五十嵐大介の『はなしっぱなし』はまさにそういう作品だろう。)
 ただ、そういう作品は想像力が衰えた後ではなく、衰える前の若い頃にやるべきではと思う。
 前半の豪邸の背景描写はよかったものの、後半のファンタジー描写は、他人の宴会に突然参加させられたような居心地の悪さを感じた。

 それでもなお、本作を観ていて凄まじいと思ったのは、宮崎駿のマザコンとエゴイズムだ。
 誰だって自分のことを良い人間として描きたがるものだと思うが、この二つの根本から逃げずに描ききった老境の宮崎駿には拍手を送りたい。
『となりのトトロ』などでも実母の不在と死の影はたびたび描かれていたが、かつて神隠しにあった若い頃の母親が、最後に「これから私は真人を産むんだな」みたいなことを言って、扉から出ていったのには度肝を抜かれた。
 これはね…すごい気合の入ったマザコンですよ。自分の欲求から全然逃げていない。死ぬ前に自分を少しでも良い人間として描こうなんて、これっぽっちも考えていない。ちょっと観ていて感動してしまった。

 あと、主人公の少年・真人は、小学生の頃に宇都宮に疎開していた宮崎駿本人の体験がかなり反映されているだろうけれど、失踪した後に塔の中で長年かけて世界を創り上げてきた大叔父も、やっていることもキャラクターデザインも宮崎駿っぽい。
 その宮崎駿(老人)が宮崎駿(少年)に、異世界の創造主としての役割を引き継ごうとする展開が、あまりに異様で良かった。
 イーストウッドの『グラン・トリノ』ですら、老境のイーストウッドが愛車を引き継いだ相手は、隣家のモン族の少年タオだ。『君たちはどう生きるか』の異様な点は、引き継がせたい老人も、引き継ぐ相手としての少年も、ともに宮崎駿だという捩れが生じていることだ。彼は自分以外の人間に、徹底的に期待しない。
 その上で考えると、大叔父が作り上げた想像力の塔の中に勝手に寄生し、生きている人間を食べ、善なる意思も持たないあのインコたちは、何を隠喩しているのか。「空を飛ぶ」翼を持ちながら地面を歩き、大叔父に引き継ぐ相手として全く見られていないインコは誰なのか。
 宮崎駿の原油のようなエゴイズムが垣間見れて、吐き気を催した。ここが最高だった。

 最後に塔は崩壊し、鳥たちは脱出し、真人は帰還する。「行きて帰りし物語」の王道のラストであり、『天空の城ラピュタ』のラストにも近いと言える。
 主人公が訪れた異界としてのラピュタは、「バルス」という呪文によって下層部は崩壊する。パズーたちは、イメージの世界である空から現実の世界である陸へと戻っていくが、ロボット兵はラピュタに乗ったままひたすら浮上していく。
『君たちはどう生きるか』のラストも、少年としての宮崎駿は帰還するものの、老人としての宮崎駿は崩壊する塔と運命を共にする。
 かつては死するロボット兵を眺めるパズーの立場だった宮崎駿が、今度は眺められながら崩壊する異世界に取り残されて死ぬ。しかも、少年としての宮崎駿に眺められながら…。

『君たちはどう生きるか』というタイトルは、本作に相応しい。宮崎駿は、自分の仕事を引き継ぐ相手として、自分以外に全く期待していないからだ。
 そして、少年としての宮崎駿も、他人の仕事を単に引き継ごうとはせず、自分で道を切り開こうとする。
 だから、宮崎駿が最後の最後に遺すのは、説教ではない。『君たちはどう生きるか』という問いかけに他ならない。
 そのエゴイズムがカラッとしているのが、とても良かった。


【追記】
 一晩経て思ったのは、ファンタジー作家として自身の死を描くことは、「行きて帰りし物語」の構造をどう描くのかに尽きるのかもしれない。

『天空の城ラピュタ』や『千と千尋の神隠し』にせよ、異界を訪れて最後は現実に帰還するファンタジーの構造は、少年少女を主人公とするならば王道と言える。少年少女にはこれからの未来があり、死は遠く、生きているからだ。
 ただ、最早、自分の遺された時間が少ないことを自覚した老人はどうなのか。異界で何かを手に入れた末に現実に帰還して、そのままどう生きればいいのか。「私はこう生きている」が「私はこう生きた」という過去形へと徐々に姿を変えていく中で、異界から帰らなくてもいいという判断があってもいいのではないか。
 本作のダブルヒロイン制ならぬダブルハヤオ制という奇妙すぎる特徴は、そういった点から生まれているのかもしれない。
 少年としての宮崎駿は異界へと赴く冒険者だ。一方、老人としての宮崎駿はその異界の創造者でもある。前者は世界を創造するには知識と経験が少なく、後者は世界を冒険するには時間も体力も少なすぎる。
「自ら創造した世界を冒険する」という創造者と冒険者の両義性は、クインテットのゲーム…『天地創造』なども連想して、私が本当に大好きな要素である。これはファンタジー作家が死を描く時に、これ以外はないと言える要素なのだろう。

 宮崎駿が死を描いたシーンとして最も好きなのは、『千と千尋の神隠し』で水上を走る電車のシーンだ。おそらくは『銀河鉄道の夜』を念頭に置きつつ、此岸から彼岸へと向かう電車のシーンを見る度に、死をここまで美しく描いたイマジネーションは他にないのではないかと胸が痛くなる。
 一方、『君たちはどう生きるか』に、それに匹敵するイマジネーションはない。
 ただ、本作は少年(冒険者)としての自分と、老人(創造者)としての自分の二人を登場させることで、「行きて帰りし物語」というファンタジーの構造を守りつつ、少年は帰還して老人は死ぬ…つまり死を物語構造の面から描くことに成功しているように感じた。
 老人は死ぬ。自ら創り上げた想像力の塔の中で。そして塔は崩れ去る。少年を現実に帰還させるために。

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