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人生で初めて恋愛映画を観た男が感じた様々なこと。

 タイトルに強い言葉を使ってしまったけれど、「人生で初めて恋愛映画を観た」というのは、もちろんそのままの意味ではない。
 26年も生きていれば否が応でも恋愛映画を享受する機会はやってくるもので、けれどそれを観たところで、しっくり来ることがなかったのも事実だった。
 すべてが嘘とまではいかないまでも、「ああ、この映画は『陽の当たる場所』しか描かないのだな」とひねくれた感想しか持てなかった。中には日陰の部分を見せる作品もあったけれど、それはあくまでも陽に当たるための布石であり、日陰そのものを味わうようには出来ていなかった。

 「花束みたいな恋をした」は、私が初めて観た恋愛映画だったと言える。というか、ここまで純度の高い「現実の恋愛」は、誰も切り取ることができていなかったのではないだろうか。
 物語のピークは冒頭にある二人の出会いであり、それからゆるやかに終わりへと向かっていく。それは作中でも語られる「短いパーティー」そのものであり、既存の日本映画において意図的に排除されていた部分にフォーカスしたものだ。
 良くできすぎた映画は「面白さ」を超えて「怖さ」すら感じる。それだけの創作物を生み出せる人間が同じ時代に生きていることすら、すこし怖い。


■この作品における「花束」とは何だったのか?

 花束が画面に映るのは一瞬しかない。それは土手を歩く絹が抱えるそれであり、タイトルに使われた花束がこのシーンを指しているとは考えにくい。
 花束とは、一輪の花の集合体である。一輪一輪はか細くとも、束になったときに初めてそれらの美しさが際立つものでもある。
 彼らの生活におけるひとつひとつの積み重ねが、一輪の花だったはずだ。追いかけている作家がいる。行けなかったライブがある。年末に帰らず、立ち寄った神社がある。一緒に食べたパンがある。
 これら小さなひとつひとつが、たとえ実を結ばなかったとしても、ふと手元を見れば抱えきれないほどの記憶として実体を持っている。それは喜ばしいことでもあり、呪いのようでもあり、現代を生きる誰もが一度は得ている経験の重みである。


■ほんのりと漂う、気持ち悪さの正体

 この映画が怖いほど良く出来ているのは言うまでもない。しかし、観終わったあと、どこか気持ち悪さが残らなかっただろうか?
 それは、作品の着地点がバッド(もしくはビター)エンドであったからではないと私は考えている。

 あまりにも良く出来た作品は、大抵の場合、描写が現実に則しすぎている。ああ、経験したことがあるよ、というシーンを濁流のように浴び続けていると、既に知っている自分の欠点を突かれたような、居心地の悪さが生まれるのだ。
 つまり、この映画の底に漂う気持ち悪さの正体は、「同族嫌悪」なのだ。
 怒りや哀しみの向けられる対象がたとえ作中の人物であれ、まるで己が責められているかのような、図星に対して反論をしたくなるような、特別な感覚。これがドラマだと、作者は我々に見えない刃物を確かに突きつけていた。


■グーグルアースという仕掛け

 グーグルアースに映り込んだという偶然を麦が喜ぶシーンは、必ず後で響いてくるであろうことは想像に容易い。しかし、ラストシーンであれだけの意味を持つなんて誰が想像できただろうか。

 これは、私の物語である、と観客の誰もが感じる構造になっている。人間のDNAは99%が同じで、残りの1%によって個々人の要素が決まるように、私たちの体験の大部分も実は重複していて、それはあまりに退屈なゆえ、作品として昇華されてこなかったのだ。坂元裕二はそれを脚本という形で成し遂げてしまった。最後、グーグルアースに映っていた二人の顔にはモザイクがかかっている。それは、この物語がありとあらゆる人間のためのものであり、匿名性を孕んでる、というメッセージを示している。
 私の物語である、ということを感じさせる手法は星の数ほどあるだろう。しかし、ネットで見つけた偶然の一枚にその意味合いを込めるほどの手腕は、やはり並大抵の書き手にはなせない、離れ業であると言わざるを得ない。

■追記

映画を観ている最中から、エンドロールのトメはオダギリジョーだろうなと思っていた。そうしたらまさかの「脚本:坂元裕二」だったので、最後の最後まで楽しませてくれるなと笑ってしまった。

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