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獲るヒトを撮ること、獲れたモノを共に食べること、そして話すこと 小国春熊猟2022 バー鳥渡で写真をみる

雪山の写真を翌月に高円寺で展示する

この展示での試みとして、旬を運ぶということを考えている。
「山で熊を獲る人を撮り、その人たちと熊を背負い運び、一緒に食べる」という写真を高円寺の良い壁に貼って、眺め、「今年はこんなだったよ」と話す。

山では、誰も地図を見ない。歩き、出来事に出くわし、それが共有され地のよび名が出来る。何度も何度も話し、場所の広がりとつながりが自分の中にできていく。その図にはいくつもの時間が重ねられているけれど、一日に一気にいくつもの時間を順序関係なく歩くことも出来る。

同じ斜面を見ても、見える人には見えて、僕にはまだ見えない。
熊を1kmくらい向こうの斜面に見つける人たちと歩いている。それも裸眼でみつける。双眼鏡をのぞこうにも、どこを眺めればいいかわからない。すると、尾根や樹木や雪の形といった特徴を言葉にして教えてくれる。最初は、それを聞いてすらわからなかった。遠くの木が松かどうかなんて、分かるモノなんだろうかと不思議だったが、最近は分かるようになったし、人に伝える時も、同じような話法で伝えるようになった。

空間と時間がまだそんなに分かれていないとき、言葉はそれらを行き来するものなのではないかと思う。背負い、背中で聞き、食べて、体の中に入った熊はその話を聞いてきたと思う。

そんな写真を撮ってきた。あと数日、高円寺の壁に今年の話が張ってある。やっぱり今日も、僕はあの壁を見に行く。


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