見出し画像

回遊する 0509改定

高山建築学校2020夏ステートメント

三ヶ月前に書いたステートメントの改稿を余儀なくされた。
例年通りの開校は、この「コロナ禍」の状況では困難である。三ヶ月前には今の状況は想像できていなかったし、一ヶ月前には、五月上旬には、国内の状況はもっと悪化していると思っていた。
三ヶ月前というのがひとつの橋がかりである足がかりである。
三ヶ月前のステートメントは、一体何から書けばいいのか分からなくて、十から一までカウントダウンする数え歌のように文章を作った。一体何が起きるか分からないカウントダウンが進行しているような状況だったからだ。でも今は違う。
話があって、
一つは高山建築学校が数河という集落にとってどういうものであるかと、僕が望むこと。
高山建築学校は数河という集落にある。数河は山間の集落で過疎が進む地域である。そこにおける感染者というものは、都市部における感染者というものと若干意味が異なる。まあ東京からの参加者が多いから都市という言い方はやめて東京と言うようにする。話が長くなりそうだからかいつまんで話すと、感染者の多い地域から、つまり東京から、数河集落へ入ってくるのは控えてほしいと言われたわけだ。もちろん先に言ってもらえたことはありがたく、夏の十日間の学校を東京から多くの人が訪れ行うことの、現在の状況下での意味は各人が考える必要を迫られていた。 この話を、この文章を読むであろう高山建築学校に関わる人とその一部が出会う数河集落の人の話にしたい。インターネットや経済社会のような周辺の見えない広がりを持った世界の中に溶かしてしまうのではなく、出会った人その人たちの顔を思い浮かべながら話をしたいのだ。そうかと言って、この世界の中でものを作ることをその中だけに留めておきたいとは思わない。
東京における感染の恐れは、高度な医療が受けられない、すなわち生命の危機というものに裏付けられたものである。 一方まだ一人も感染者のでていない集落においては、最初の一人にはなりたくないという思いがあるだろう。感染者のいる社会の受容に時間差がある。そもそも、僻地はコロナ禍以前から救急医療には間に合わないこと知っている。何にでも相場があると思っている。放射能への恐怖というのも、初めて福島に僕が入った時と、今では大きく異なる。状況が見えてきたということだけでなく、状況が見えるよりも先に「慣れ」ていくという感覚を覚えている。 この慣れがいったい何なのか、それを僕は相場と言っている。リテラシーとも言われている。リスクコミュニケーションの対象にもなっている。相場は局地的で、 社会の集団の中で生まれる。 自粛の要請と言う 不穏な「お達し」がそれぞれの相場における解釈を求める。 閉塞した状況に穴を開けて風を通すと言う新しい相場を作る人は、数河よりも東京に多い。 これは閉塞した状況にどれだけ慣れているかどうかということにも関係していると思う。こうした環境における違いが例年であればとても刺激になったのだが今はこの違いをよくよく考えなければ話にならない。この話がどこに行くかわからないけれど、村というものが官僚制度を強化しているという話を最近思っている。政治は霞ヶ関にあるから現地のことはわからないという言説は耳にするけれども、非東京地域というものが結局のところ総人口に占める割合は大きいのだ。時間軸に載せずに話をすると結局どんどん村というもので話ができてしまうので、東京というものがどんどん見えなくなる。でもさっき言ったように、時間差がある。もしかしたら都市というのは、状況の波打ち際で、非都市部というのはそこから離れた山だったり海だったりする、状況の波から離れた場所なのかもしれない。市町村合併というのは明治から始まり各地の自治単位を合併してきた。その合併の意味するところは多数決による集権である 。自らホイホイと自治権を放棄するわけもなく、その引き換えに学校と病院が提供された。しかしどうだろう、中央への集権が進む昨今、 かつて合併された村や町からは、学校は消え、馬車でも雪の上を来るような医者は遠く離れていった。こうした傾向は高速道路の敷設事業にも見られる。かつて地元への産業を盛り上げ、都市との交流を活発化させるという触れ込みであったが、現在は、都市への人口流動が止まらない要因の一つとして高速道路や新幹線がある。教育の機会が増え、医療によって救われる命が増え、人々が自由に移動できる範囲が増える。どれも悪いことではない。むしろいいこととしてずっと語られてきた。 そうした公共事業を推進するものと、自治権を手放すことを拒否するもの、もっと言えば自分の耕してきた畑をアスファルトで埋めることなど望まないもの、これらの互いの対立は 共同体に禍根を残し現在に至る。世代交代とともに風化しながら。推進と反対の議論には決着が出るものもあり、そこで勝利したものがその後の地盤をより固める。そのため、結構な目に遭い続けても、声を上げることは少数となり排斥の対象となる。近隣住民がずっと変わらない村においてはその地盤はより強固になっていく。それが先ほど言った、村が官僚制度を強化するという仕組みだと思っている。僕が生まれる前の話も多い。こうした歴史とどう向き合うかということは時間軸を考え、状況の波打ち際で考える際、大事にしている。この公共と言う他人の下駄を集めに集めた権力組織を、官僚制度と呼んでいる。 先ほど村の話で東京の話もできてしまうと言ったが、 権力を集めるために便利さや自由がいっときばら撒かれその後いっぺんに回収されるということはすでに経験してきたことで今東京が経験していることでもある。 今回収奪されるのは、 せいせいと歩ける権利である。 下駄は公共を語るものに預けるものではない。カランコロンガラゴロガラゴロ鳴らしながら、すりへらし歩くものである。そうでなければつっかけた花緒をすっ飛ばし、裸足で駆け出すためのものである。高山建築学校が数河集落にとってどのような意味を持つかといえば、下駄を預けることに躊躇し、歩んできた人たちから学び、ものを作り、拙いものであってもそれがどのように世界とつながるかを伝え、風穴を開ける機会であるということである。

感染リスクを持ち込むことを集落に説明し、参加者同士の感染の機会を減らすことに留意し学校開校することは困難であっても、できると思う。それを上回る今やらなければいけないと言う必然と 洞察を続ける。
僕が今やらなければいけないと思うことは、誰かにとっては今でなくてもいいことで、僕は今やろうと思うから、一緒に考えてくれる人を引き続き求めています。

開校に向けての詳細は、まだまだ多くの人と話をしたいし、 でもどうやればいいかもなかなかわからない。でもこの線はまだ生きてる。残された時間はある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?