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飲み会悲喜交々

 今日は職場の飲み会である。「またクラスター出てるんだからやめときゃいいのに」と皆が思っているが、部長が乗り気なのだから仕方がない。
 ちなみに私は、飲み会が大の苦手である。飲みニケーションの必要性を否定するわけではないが、会話の受け答えからお酌に至るまで、他人に気を遣うポイントが多すぎるのだ。飲み会が終わると、反動で夫に八つ当たりをしてしまう。いつも駅まで迎えに来てくれるのに、私は毎度のように、彼を困らせてばかりいる。

 そんな私は今、部長の隣でぬるいビールを飲んでいる。6人掛けのテーブルだが、一般社員は私と同僚女性の2人だけで、残る4人は全員が役職付きである。籤運のなさを呪うしかない。ちなみに同僚は妙齢の美人だ。部長はすっかり相好を崩している。若くもなければ美人でもない私は、愛想笑いを浮かべながら、ぎこちないお酌を繰り返していた。

「ところで、君は誰さんだっけ?」
出し抜けに部長に話しかけられた。美人の名前は訊かなくても知っていたようだが、そうでない人間は印象に残っていないということらしい。喉元まで出掛かった嫌味をグッと飲みこんで、所属と名前だけを簡潔に答えた。
「庶務課の橋本です。」
「ふーん。」
部長は興味なさげに視線を逸らした。美人との会話に戻っていく。

——去年の暮れに結婚したばかりだから、今はどの苗字を使っているのか確認したかっただけだろう。そうに違いない。

 そう自分に言い聞かせていると、向かいに座った課長補佐から同情の視線が寄せられた。お願いですから、そんな目で私を見ないでください。

 そのうち、美人が出し抜けにトイレへ立った。しかしそれは口実で、本当は部長の相手が嫌で逃げてしまったのだと、その場にいる全員が察していた。随分長いこと絡まれ続けていたから、ついに我慢の限界を超えてしまったのだろう。しかし部長のほうは、明らかに面白くなさそうな顔で口を尖らせている。
 すると、課長がいきなりゴルフの話をし始めた。部長のゴルフ好きは社内でも有名である。係長と課長補佐もすぐにその意図を察し、話題に乗っかった。部長は最初こそ「そうやって俺を乗せようとしてるんだろ」と不満を漏らしていたが、すぐに機嫌を良くして、スコアの自慢話をしはじめた。私にはゴルフのことはよくわからないが、みんな楽しそうにしているところを見ると、きっと凄いことなのだろう。とりあえず、にこにこ笑って調子を合わせておくことにする。

 会場全体を横目でそれとなく見渡したところ、部屋の反対側で楽しそうに笑っている美人の姿を見つけた。30代以下の若手社員が多く集まるテーブルである。いなくなり方が多少不自然だろうが、そのために部長やほかの上司たちからどう思われようが、彼女は一切気にしないのだろう。そのしたたかさが、私にはほんの少しだけ羨ましく思えた。

 それから30分ほど経ったころ、部長の口数がだんだん少なくなってきた。自慢話のネタがようやく尽きたと見える。そろそろ私も逃げを打つ時だ。
「すみません、ちょっとお手洗いへ。」
そう言い残して席を立った。無意味に口紅を直すなどして、少し長めに時間を潰す。宴会場に戻ってみると、さっきまで私と美人が座っていたあたりに、若い男性社員が3人ほど固まって座っているのが見えた。距離が遠いので話の内容までは聞き取れないが、会話もなかなか盛り上がっているし、部長の機嫌も上々のようだ。これなら、1人くらいフェードアウトしても不自然には思われないだろう。私はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし困った。座れる席がどこにもない。あの美人がいる若手社員テーブルでは、絵に描いたようなどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。一見すると楽しそうだが、あれはあれで「盛り下がらないように」と気を遣うものだ。少なくとも私は好きではない。

 取り敢えず、表で一服することにした。最近は喫煙者に対する風当たりが強いので、人前では決して吸わないことにしている。少なくともそのつもりでいたのだが、半分も吸いきらないうちに、背後から聞き覚えのある声に呼びかけられた。
「橋本さんって煙草吸うんすね。」
振り向くと、部署の後輩が道端に座りこんでいるのを見つけた。辺りが暗いので気づかなかったが、どうやら私が来る前からその場所で蹲っていたらしい。
「どうした?具合悪いの?」
「……ちょっと飲みすぎたかもしんないっす。」
 本人曰く「大丈夫っす」とのことだったが、どう見ても大丈夫ではなさそうに見えた。煙草を消して店内に戻り、カウンターで事情を説明すると、店員さんがコップに水を注いでくれた。後輩のところに持っていってやる。
 彼はそれを一気に飲み干した。何だかんだで喉が乾いていたらしい。
「2杯目要る?」
「大丈夫っす。」
「そっか、じゃあ私は戻るね。もうちょいで解散だから、ちょっと休んでから来たらいいよ。」
「ありがとうございます。」

 まあ、こんなもんでいいだろう。後輩からコップを受け取り、店員さんに返した。値上がりしたばかりの貴重なPEACEが1本無駄になったが、具合の悪い人間を放置するというのも寝覚が悪い。
 また口紅を直してから宴会場に戻ると、あの美人に呼び止められた。
「ねー、後藤君見ませんでした?さっきから全然戻ってこないんですよね。」
後藤というのは、さっき表で座り込んでいた、あの後輩の名前である。
「ああ、さっき見ましたよ。そのうち帰ってくるんじゃないですかね。」
私は美人の隣に座った。もう宴もたけなわといった風情で、席次も何も全てがぐちゃぐちゃになっている。どこに誰が座ろうが、誰も気にする者はない。
「ていうか、橋本さんもどこ行ってたんです?もうラストオーダー終わっちゃいましたよ?」
「ああ、主人から電話が来てまして。」
「本当?怪しいな?後藤君と2人でイチャついてたんじゃなくて?」
美人はそう言ってケラケラ笑った。イチャついてないから事実無根だと言いたいところだが、後藤と2人でいたという点だけは紛れもない事実である。冗談めかして真実を突いてくるから、女の勘は恐ろしい。
「人聞きの悪いこと言わないでくださいね?」
変に邪推されても困るので、こちらも冗談めかして釘を刺しておいた。

 そうこうしているうちに、後藤がテーブルに帰ってきた。
「お帰り!遅かったね、みんな心配したよ?」
「すいません、ちょっと親から電話来てたんで。」
奇しくも、さっきの私と同じ言い訳である。男のプライドなのか何なのか、飲みすぎて具合が悪いとは言いづらいらしい。その偶然の一致に、美人がさっそく食いついた。
「あー!それさっき橋本さんも言ってたやつじゃん!怪しいなー?」
「だから、人聞きの悪いこと言わないでくださいね?」
さっきより気持ち太めの釘を刺してやると、テーブルにいた他の社員がどっと笑った。

 それに合わせて愛想笑いをしつつ、ポケットからスマートフォンを取り出した。そろそろ夫から連絡が来ている頃合いだ。テーブルの下に隠して画面を覗くと、予想通りメッセージが届いていた。
——飲み会お疲れ!そろそろ気分的に限界でしょ?迎えにいくよ!
思わず頬が緩んだ。やはり君こそが私の理解者だ。周りに見られないように気をつけながら、こっそりと返事を返す。
——もうそろそろ解散らしい。申し訳ないけど、すぐに来られそう?
——了解。駅で待っててね。
私はハートマークひとつで返事をした。いつも八つ当たりしてごめんね、愛してるぞ夫。

 そのとき、幹事がおもむろに立ち上がった。
「宴もたけなわではありますが、そろそろ予約終了のお時間となりました。ご歓談中のところ申し訳ありませんが、ここらで一旦中締めとさせていただきたく思います。」
そして恒例の一本締め。我慢の時間はこれにて終了だ。開放感のあまり溜息をついたとき、後藤がそっと話しかけてきた。
「さっきはありがとうございました。」
わざわざそれを言うために、体調不良を我慢してまで機会を待っていたらしい。一刻も早く帰りたいだろうに、律儀なことだ。
「ご丁寧にありがとう。大丈夫?帰れる?」
「お陰様でどうにか。帰りは係長の車に乗っけてもらうっす。」
「そう言えば、家が近いんだったね。じゃあ、お気をつけて。」
後藤は一礼して帰っていった。顔色が赤を通り越して青くなっていたのが気がかりだが、係長がついているなら問題はないだろう。

「ありがとう、か。」 
思いがけないことばの余韻に浸りつつ、私はようやく店を出た。

✳︎

 駅までの道のりは、思ったよりも遠かった。夫の待つ駐車場に着いたときには、ハートマークを送ってから30分近くが経過していた。車に駆け寄ってドアを開けると、夫が膝の上のノートパソコンから顔を上げた。どうやら待ち時間の間に仕事をしていたらしい。
「忙しいのにごめん!お待たせ!」
夫は怒るでもなく、
「お帰り。寒かったでしょ。」
と言って、フリースの膝掛けを差し出した。私が自宅で愛用しているものを、わざわざ持って来てくれたらしい。
「ありがとう。」
気遣いと温度が、冷え切った身体に染み渡った。

「今日の飲み会、どうだった?」
「楽しくなかった!」
「つまりいつも通りか。お疲れさん。」
夫は苦笑いを浮かべた。パソコンを畳んで私の膝に置き、車を発進させる。
「でも、今日は珍しく機嫌がいいね。」
「そうかな?」
「何かいいことでもあったの?」
「んー、別にない!」
「ほう?」
夫はニヤニヤ笑っている。

「強いて言えば、珍しくお礼を言ってもらえたよ。」

 ちょうど、信号待ちのタイミングだった。夫は私の頭を優しく撫でた。分厚くて固くて、温かい掌。安心すると同時に、なぜだか少し泣きそうになった。
「……でもやっぱり、今日は疲れちゃった。家に着くまで寝ててもいい?」
「いいよ。今日は遅くまでお疲れさん。」
涙を見せると夫が心配するかもしれないので、私は膝掛けにくるまり、窓の方を向いた。眠る前に「ありがとう」を言うのだけは忘れなかった。
 次第に重くなっていく瞼の向こう側を、飲み屋街の灯りが足速に通り過ぎていった。

(了)