愛するということを読んで

フロムの愛するということを読んでの感想。

結論、とても良い本だった。というか、愛に対する捉え方が変わった。そして、愛だけでなく、自分に対する捉え方も変わった。自分が無思考に「価値がある」と思い込んでいたことは、社会によって思い込まされていたのだと気付いた。自分が無思考であったことに気づいた。

本書は、愛とは何かについて語り、そして社会がもたらす愛とは無縁の現代人のパーソナリティについて語り、最後にどうやって愛を「習得」するのかを語る。目からウロコの発想であったのが、愛は技術であり、習得するものという考えである。

また、自分は"自分自身の"価値観や性格があると思っていたが、どうやらそうではないらしいことにも気づいた。愛の性質が自由恋愛によって大きく変わったように、資本主義という社会構造によって、個人の性格も大きく規定されていることに気づけた。

この本を読んで、私は自分が何に価値を見出すかを決め、能動的に人生を生きたいと思った。それ自体に合理的な意味があるのかはわからない。なぜそうしたいかはわからないが、そう思ったのである。

以下、要約。

愛は技術

人を愛そうとしても、自分の人格全体が発達され、それが生産的な方向へ向かうように全力で努力しないと、決してうまくいかない。

愛は技術である。誰もが愛に飢えている。しかし、学ぶ対象と考えている人はほとんどいない。それは3つの思い込みによるものだ。

1つは、大抵の人は愛の問題を「愛される」問題と捉えていること。2つ目は、愛は対象の問題で能力の問題ではないと考えていることだ。3つ目は、「恋に落ちる」ことと愛しているという持続的な状態を混同していることだ。

2つ目について捕捉しておくと、この思い込みは20世紀に起きた愛の対象に関する変化によってもたらされている。それまで、結婚はしきたりによって決められ、結婚後に愛を育むのが通例であった。しかし、20世紀に自由恋愛から相手を選んで結婚することが主流になり、その変化によって対象の重要性が上がった。

本書は、愛は技術であるというスタンスをとって、愛とは何かについて書いていく。

人間の合一への欲求

人間は、動物とは違い、本能的に適応する世界から抜け出し、自然を超越している。いわば理性を獲得している。それゆえに、一つの問題の解決を人間は迫られてきた。

それは、いかに孤立を克服し、合一を達成するか。いかに個人の生活を越して、他者と一体化するかという問題である。

この問題に対する解決策の記録が人類の歴史であり、生け贄、征服、贅沢、禁欲、仕事など様々な解決策が取られてきた。

個人レベルで、どのような解決策を取るのかは、個人としてどれくらい自立しているかによる。幼児はそばに母親がいて触れることを求めるし、狩猟時代は自然との一体感を選んだ。また、祭り、集団セックスなど興奮状態による合一体験も存在する。

そして、現代にもよく見られるのが、集団・しきたりへの同調による合一だ。個人を集団に同調させるためには2つのやり方がある。1つは独裁。威嚇と脅迫を使う。もう1つは民主的なやり方。暗示と宣伝によって、同調を勧める。民主的であっても、多くの人々は同調を選択する。しかし、ほとんどの人は自らの同調欲求に気づかず、自分の考えや好みに従って行動していると思い込んでいる。

現代では、全員が同じ命令に従っている。仕事も同じようで、娯楽も同じようである。

生産的な解決策としては、創造的活動がある。自分で計画し、生産し、自分の目で結果を見るような仕事のみ、仕事の対象との一体感を得られる。しかし、対象が人間ではないという点で完全ではない。

(フロムがいうには)完璧な答えは、愛である。愛によって、人間同士が一体化する。

愛とは?

では、愛とは何か。

成熟した愛とは、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。ふたりがひとりで、かつひとりがふたりというパラドックスが起きる。

未成熟な愛とは、共棲的結合である。片方が服従し、片方が支配する。服従とは、マゾヒズムから生まれ、指図・命令する人物の一部になろうとすること。支配とは、サディズムから生まれ、他人を自分の一部にして、自分を膨らませること。

愛とは、能動的であるが、では能動的とはなんだろうか。達成すべき目標が自分の内側にあるのか、外側にあるのかで、能動受動は決まる。(外側が受動)

例えば、強い不安と孤独感に苛まれて、休みなく仕事に駆り立てられる。例えば、野心や金銭欲から仕事に没頭する。これらは、活動的に見えて、実は受動的である。自分の意志ではなく、駆り立てられており、情熱の奴隷となっている。

反対に、精神を集中した瞑想は一見ぼーっとしている。しかし、内面的な自由と自立がないと実現できないという意味で、能動的な行為である。

では、愛が能動的であるとは具体的にどういうことか。それは、愛は与えるということであり、もらうことではないという意味だ。与えることが愛なのだ。

では、与えるとは何か。実は複雑である。何かを諦めたり犠牲にすることは、愛ではない。見返りがあるから行うのは、愛ではない。生産的な性格の人にとって、与えることとは、自分の持てる力の最も高度な表現なのである。与えることを通じて、自分の持てる力と豊かさを実感するのである。わかりやすい例がセックスで、セックスは自分が持つものを与えているのである。

そして、与えるという行為の最も重要な部分は、物質の世界ではなく、人間的な領域にある。愛とは、"自分の生命"を与えることだ。自分の中に息づく、喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなどを与える。

もらうために与えるのではない。だが、与えることで、他人の中に何かが生まれ、それが自分に跳ね返る。与えることは、他人をも与えるものにする。互いに相手の中に芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。すなわち、愛とは愛を生む力といっても良い。

与えるという意味で、人を愛せるかは、人格がどのくらい発達しているかによってくる。依存心、ナルシズム的な全能感、他人を利用しようとか、なんでも貯め込もうという欲求の克服が必要である。自分の中にある、人間的な力を信じる必要がある。

愛の性質

愛は4つの性質からなる。配慮、責任、尊重、知である。

配慮とは何か。それは、愛するものの生命と成長を積極的に気にかけることである。

責任とは何か。それは、他の人間が何かを求めてきたときに、応答することである。

尊重とは何か。それは人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二であることを知る能力である。他人が、その人らしく、成長・発展していくように気遣うことでもある。これが欠けていると、責任は、支配・所有に転落してしまう。

尊重するには、その人のことを知る必要がある。自分自身に対する関心を超越して、相手の立場に立ってその人を見ることで、はじめてその人を知ることができる。

知とは何か。自分を与え、相手の内部へと入っていく行為(愛)において、人は相手と自分、そして人間を発見する。このようなことを達成するには、まず思考によって人間を知ることが大切である。思考によって知るとは、すなわち心理学を学ぶということである。

なぜ異性に惹かれるのか

性のもう一方の極と合一したいと言う欲求を持っているからである(自分用memo: このあたりよくわからんかったな。。)。

与えることの喜び

人は、成熟するにつれて、与えることの喜びを知る。与えることによって、他者との結びつきや一体感を感じるようになる。

未成熟な愛とは、「愛されているから愛する」「あなたが必要だから、愛する」と言うものだ。成熟している愛とは、「愛するから愛されている」「あなたを愛してるから、必要だ」と言うものだ。

愛には、母親的な愛と父親的な愛がある。

母親的な愛とは、無条件の愛。自然の愛。父親的な愛とは、条件付きの愛。父親の期待に応え、似ている子供が愛を受けられる。母親的な愛は6歳までに必要とされ、子どもの安全を守る役割を果たす。6歳以降は父親的な愛が必要とされ、子供は愛されるために頑張り、結果として問題を対処できるような能力を身につける。

成熟した人は、母親的な愛と父親的な愛の両方を自分の内部に持っている。母親的な愛は、愛する能力によって生まれ、父親的な愛は理性と判断によって生まれる。どちらがかけても未成熟になる。母親的な愛がなければ、残酷な人間になる。父親的な愛がなければ、判断力のない人間になる。

愛の対象について

愛とは特定の人間に対する関係ではない。世界全体に対して、その人がどう関わるかを決定する態度である。1人を本当に愛するとは、全ての人を愛すると言うことであり、世界を愛することであり、生命を愛すると言うことであり、自分自身を愛すると言うことでもある。

とはいえ、全ての人を愛するといっても、対象によって、愛にも様々な種類がある。

1. 友愛

基本的な愛。「その人の人生をより良いものにしたい」という願望。友愛によって、合一感・連帯意識を味わう。

底にある考えは、「私たちはひとつ」というもの。才能・知性・知識などの違いはあるけど、とるに足らない違いと捉えている。

無力・貧しいものなど、自分に役に立たない人への愛が友愛の始まりである。

2. 母性愛

母と子の関係

3. 恋愛

他の人間とひとつになりたいという願望。対象が排他的である点で、1,2と異なる。

恋愛は誤解されやすい愛である。恋愛は、恋に落ちるという劇的な体験と混同されやすい。恋に落ちるという体験は、すなわち「さっきまで他人だった2人の壁が突然崩れる」という体験であるが、それは幻想である。他人はすぐに身近にはならない。

このような幻想の原因として、性的欲望の誤解がある。実は愛以外にも、孤独の不安、征服したいという欲望、虚栄心などによっても性的欲望は掻き立てられるのだが、肉体的に求め合う=愛と誤解されやすい。もちろん、愛がせい欲を掻き立てることもあるが、その場合、貪欲さ・征服の欲望はなく、優しさがある。

肉体的欲求が愛に基づかない、もしくは、恋愛が同時に友愛ではないとき、合一は束の間にしか持続しない。

愛は意志の行為である。自分という存在を愛し、相手の本質と関わりあう行為である。それは自然発生的なものではない。激しい感情でもない。決断であり、約束である。

自分用memo: 恋愛の説明は、全体的に因果関係が理解しきれていない

4. 自己愛

他人愛と自己愛は両立する。「汝のごとく、汝の隣人を愛せ」という教えの通り、自分を愛することと、他人を愛することは不可分である。自分も対象の一部である。

利己主義と自己愛は混同すべきではない。利己的な人は、自分しか見えない。自分の役に立つかで物事を判断する。つまり、根本的に人を愛することができない。利己主義者は、むしろ自分を愛していない。逆に憎んでいるとも言える。足りない自分への愛を、他人から引き上げているのだ。

神経的な「非利己主義」も同様である。自分のために何も欲しがらず、他人のためだけに生き、自分を大事にしない人がいる。彼らは結局幸福になれない。彼らには、実は強烈な自己中心主義が隠れている(自分メモ: どういうこと?)。彼らには、自分も相手も利するという、生産性が欠如している。

自分を他の全ての人と等しく愛するということこそ、真に愛しているということだと言える。

5. 神への愛

自分はあんまり理解できず。

愛と現代西洋社会における、その崩壊

愛は生産的な能力である。能力であるがゆえに、その発達度合いは社会に影響される。

西洋社会は、愛が稀にしか見られない社会である。資本主義とは、政治的自由と市場原理という2つの要素から成り立っている。資本主義の発達の結果、資本の蓄積と集中が進んだ。結果、大企業はどんどん巨大化し、中小企業は潰れていった。結果として、主導権は個人から組織へと移行し、多くの人が独立を失った。また、徹底した分業化が生まれ、個々の労働者は個性を失った。あたかも、使い捨ての機械部品のように扱われることになった。

現代資本主義が必要としている人間は、以下のような人間だ。大人数で円滑に協力ができる人。飽くことなく、消費したがる人。好みが標準化され、他から影響を受けやすく、行動を予測しやすい人。自由だと思っているが、社会という機械に自らをはめ込む人。具体的には、自分の目的がなくても「成功せよ」「休まず働け」と言った、命令に従って働く人。

現代人は、自分自身からも仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は、商品と化し、自分の生命力を費やすことを、まるで投資のように感じている。

そのような人たちの人間関係は、疎外されたロボット同士の関係と言える。誰もが孤独であり、孤独であるがゆえに、集団にしがみつこうとする。考え、感情、行動を周囲と同調させようとするのだ。

社会は、孤独に気づかないように、鎮痛剤を提供している。制度化された仕事を与え、超越と合一という欲求に気づかないようにさせる。また、画一化された娯楽を与える。人々は、音や映像の受動的な消費、購買などを通じて、孤独を紛らわそうとする。

私たちの性格は、交換と消費に適応している。今や、精神的なことまで、その法則に従って、考えようとするのだ。ロボットは愛することができず、(与えるのではなく)商品化された人格を交換し、公正に売買しようとする。

西洋社会がもたらす崩壊した愛は2パターンある。1つは、互いの性的消費としての愛である。これは、フロイトが説明している。もう1つは、「チームワーク」としての愛である。社会から孤立し、2人で社会に挑むための愛である。これは、サリヴァンが説明している。

私たちの世俗的な努力の土台には、無関心と自己中心主義がある。現代の宗教は神への愛を説くが、それは神を愛すること時代に価値があるからではなく、「ビジネスに役立つから祈る」というものだ。

愛の修練

繰り返しになるが、愛は技術である。したがって、修練を積むことが必要である。なお、愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外に経験の方法はない。よって、修練の方法は伝えるが、実践するのはあくまでその人自身である。

技術の修練に必要なことは3つある。規律、集中、忍耐である。

規律

自分の意志で、楽しいと思える規律を作り、それに従う必要がある。(自分memo: なぜ?)

集中

現代社会は、散漫な生活を誘うものが多い。タバコ、食事、お酒など。多くの人は、1人で何もせずにじっと座っていられない。すぐにソワソワと落ち着きがなくなるのだ。

集中するためには、まず1人でじっとしていられるようになることが大切である。これは瞑想によって鍛えられる。

また、何をするにも、精神を集中するように心がけることが大切だ。その時、自分がやっていることが重要であり、そのことに没頭するのだ。

そのためにも、くだらない会話をできるだけ避ける必要がある。くだらない会話とは、お互いの心が入っていない会話である。内容のことではない。どんな会話でも、上の空にならなければ、その会話には意味がある。

また、悪い仲間を避けることだ。魂が死んでいる人、くだらない事ばかり話す人がそうだ。

他人との関係において、精神を集中するために必要なことは、何よりもまず相手の話を聴くことだ。たいていの人は、相手の話をろくに聴かず、聴くふりをして助言する。集中して聴けば疲れるというのは間違いで、むしろますます覚醒して、心地の良い体験となる。

集中とは、全身で現在を生きることである。

自分に対して、敏感にならなければ、集中力は身につかない。感情に変化があった時、「何が起きたか」を自問すること。変化に気づき、その変化を安易に合理化しないことが大切だ。

また、内なる声に耳を傾けることが重要である。

「自分がおかしくなっていないか」に気づくためには、精神的に最高とは何かを知っている必要がある。体は自分でわかるが、心については自分が生まれた社会集団の心の動きを正しいとみなす。

今の時代には完成された精神を教える人がいない。かつては、そのような人が高く評価されていたが、今の時代には評価されなくなってしまった。

ではどうするか?答えは、あらゆる時代の文学作品や芸術から学ぶことだ。そこに、良い精神・悪い精神が現れている。

愛の能力にとって、特別重要なことは、ナルシズムの克服である。ナルシズムの強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象は、自分にとって有益かという基準のみから経験される。

ナルシズムの反対が、客観力である。人間や事物をありのままに見るということ。自分の欲望や恐怖によって、つくりあげたイメージと、現実を区別するということである。我々は、ナルシズムによって歪められた世界を見ている。

客観的に考える能力こそが理性である。その基盤となる姿勢が、謙虚さである。全知全能の夢から覚め、他人も自分も客観視することが大切である。あらゆる場面で客観的になる必要がある。そして、どういう時に自分が客観的ではないのかに、敏感になることが重要である。

忍耐?

愛の技術修練には、「信じる」ことが必要である。信じるとは何か。

理にかなった信念とは、自分の感情の経験に基づいた確信である。根拠のない信念とは、権威への服従に基づいた道理にかなわぬ信仰である。多数の人がそう言っているからという理由で信じるのは、信念ではない。

信念を持つには、自分を信じることが大切だ。自分の中に、何か芯のようなものがあると信じることが大切だ。そこが揺らぐと、他人に頼るようになる。そして、他人に褒められるかどうかが物事の基準になる。

他人を支配するという意味での力や権力を信じたり、用いたりするのは、信念とは真逆の行為だ。信念とは、他人のなかに愛を産めると信じること。他人の可能性を信じることだ。(自分memo: このあたりよくわかってない)

信念を持つには、勇気がいる。愛するにも勇気がいる。困難に直面した時、自分には起こるはずのない不公平な罰ととらえるのではなく、試練として受け止め、克服すれば強くなれるはずだと考えるには、勇気と信念がいる。

信念を持つにも、修練が必要である。自分がいつ信念を失うのか、ずるく立ち回るのか、そしてどうやってそれを正当化するのかを調べる必要がある。

現在の資本主義では、ものだけではなく愛も「もらった分だけあげる」というのが当たり前になっている。このような社会で、愛の修練など可能なのだろうか?

可能である。たしかに、資本主義を支える原理と愛の原理は両立し得ない。しかし、実際はもっと複雑で、仕事をやめなくても愛の修練を積むことはできる。(自分memo: このあたりもよくわからない。なんとなくは分かる気がするけど)

現行制度のもとで、人を愛せる人というのは例外的な存在である。多くの人の目的は、「もっと多く生産し、もっと多く消費すること」となっている。全ての活動が経済に奉仕している。手段が目的化している。

個人が愛を修練することはできるが、根本的な社会の変容が必要なのではないだろうか。経済に奉仕するのではなく、経済が人間に奉仕するような社会へと。

改めての感想

要約して見ると、まだ筆者の主張を理解できていないことに気づく。特に因果関係。ナルシズムの克服は自分の課題だな。まだ客観的に見れていないことが多い。そして、自分が何に価値を見出し、どのような人間になりたいのかを言語化したい。やるぞー


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