見出し画像

2024.3.11『SS いつかサクラを』

ネックレスとイラストを拝見し書いた

SSです


「昨夜読んだ本に面白いことが書いてありました」
 閑静な部屋に柔らかく穏やかな声が響く。はじめてお会いし声を聞いた時は、どこか異国の婚礼で使われる貴重な楽器の音色か、世界に数羽しかいない絢爛な羽根を持つ鳥の囁きかと勘違いしたものだ。
 それ程に、この御方の声は麗しい。
「ねえ、お前。聞いているのですか?」
「あ、ああ。申し訳ありません。……本、ですか?」
 声に聞き惚れていたら返答が遅れてしまった。慌てて姿勢を正し口を開くから、上擦った凡俗な声が喉奥から飛び出る。
 窓際に置かれた椅子に腰かけた高貴な御方はゆるゆると顔を上げた。ほんの少しだけ上げられた口角と、大きな瞳は私を見つめている。
 こんな時、一体どこを見ることが正解なのかいつも分からない。私程度の存在が、この御方と目を合わせて良いものか不安で胸が騒がしく逸るのだ。
「なんでも――異国にはサクラという花が、ハルという時期にだけ咲くそうです。薄桃色の花弁が重なり合い青空に舞う光景は、たいそう美しいそうですよ」
「サクラ、ですか」
「はい。お前は知っていますか?」
「いえ。そもそもハナを見たことがありません」
 恐らく本に書いてある異国の話は、遥か昔のものだろう。
 ハナなんて、私の親も、その親だって見たことがない筈だ。存在だけは知っているが、幼子が話す御伽噺に出てくる情報程度しか知らない。
「そう。そうですよね」
 私の無知さ故に落胆させてしまったかもしれない。後悔でじわりと身体が固くなるが、高貴な御方は、依然として口角を少しだけ上げて私を見つめている。
「ふふ。私はね、サクラを知っているんです。サクラはね、うぅん……と、そうですねぇ……。
 ああ、お前。ちょっとこちらに来てください」
「は、はあ」
 言われるがまま距離を詰める。
 高貴な御方は、近くに置かれていた丸い果実にゆるりと手を伸ばし、その一つをもいだ。
「ガラスの中で生産される果物だって、本当は花が咲くのですよ。
 草も木も花も、本当は青空の下で、生命を伸ばして生きていたのです」
 高貴な御方が一体何の話をしているのか、無学な私には分からない。ただ、差し出された果実は私の唇に押し当てられ、自然と開いてしまった口の中にそのまま押し込まれた。
 恐る恐る果実を噛むと、プチと皮が破れて甘酸っぱい汁が口いっぱいに広がる。
 果物なんてはじめて食べた。その上こんな高級なものを。……きっと一生涯働いたって買えやしないだろう。
「これは、ぶどうです」
「ぶ、どう……」
「これでぶどうの色、味を覚えましたね?
 いつかお前が私のことを忘れても、思い出してください。
 青空の下で美しく咲き誇るサクラのことを」
 高貴な御方は、再び窓に視線を向ける。
 空の見えない分厚いガラスに覆われた部屋で、私は再び仕事に戻った。

 サクラ、サクラ。

 いつか、この高貴な御方と共にサクラを見られたら……いや、有り得ない。けれど未だ舌に残る瑞々しい甘さは、忘れたくても忘れられないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?