「分人」という考え方

分人という言葉がある。
これは、作家の平野啓一郎さんが提唱している考え方だ。
‟人間にはいくつもの顔がある”ことを肯定し、対人関係や居場所によって「自分」が自然とつくられることを表している。
家族の前での自分、友達の前での自分、仕事場での自分…など人間には様々な顔がある。それをどれも「本当の自分」なのだと肯定し、人々の生き方を楽にしてくれるのが分人主義である。
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私がこの言葉を知ったのは、オードリー若林正恭さんのエッセイナナメの夕暮れ社会人大学人見知り学部 卒業見込みを読んだことがきっかけだ。(とても面白かったのでいつか感想書こうと思います)
若林さんは分人の考え方に救われたと仰っており、後者のエッセイの中でこの考え方について紹介している。

ディヴ(分人)は本当の自分に嘘をついてる訳でも、無理をしている訳でもないという部分を読んでから様々なディヴ(分人)を使い分けること、自分の意見をTPOによって変えることに対して罪悪感を持たなくてもいいような気がして気持ちが楽になった。
―若林正恭『社会人大学人見知り学部 卒業見込み』KADOKAWA 2013年 p96より 

私もまた、若林さんのエッセイを読んだことで少し考え方が変わり、楽になった。ではどのように変わったのか。


◎「本当の自分」にこだわらなくなった

子供の頃なんかで言うと、他人の悪口で「あの子と自分に対する話し方や態度が違う」「えっじゃあ嘘なの?」「なんかあのグループでは楽しそうだよね」といったものをよく聞いた。小学生の頃とかは特に皆平等に接することに敏感というか、「違う顔」があることに少なからず否定的な空気があると思う。

そんな中、ずっと思っていたことがある。
「本当の自分って何だろう?」ということだ。

まず軸としてだいたい自分はこういう性格だ、というのはあると思う。
私の場合、外部から見える性格と自分が知っている性格の溝が大きいタイプなので、なかなか人に伝わりづらい分「本当の自分」に対するこだわりや自意識が強い。本当はそんな人じゃない、「本当の自分」をもっと知ってほしい、と思ったりする一方で「本当の自分とは何なのか?」と疑問を抱くようになった。

それは色々なコミュニティに所属するようになった高校~大学の頃からだ。部活、バイト、ボランティア、飲み会などそれぞれ違う枠に飛び込むことによって、色々な人たちと関わった。
振り返ると、コミュニティごとに微妙に自分の顔が違うことに気づいた。
ここでは思っていることが言いやすいなとか、逆に言いにくいなとか、その場所によって自分が少しずつ違うような気がした。だから私ってどういう人だっけ?と思うことが多くなった。履歴書の自己PRもこれだ!と思える点が見つからず、しばらく悩んだ。

私は最初、どんな環境でもどんな相手でも動じず「自分は自分」として居たいと思っていた。例えば誰にでも明るく気さくに振る舞える人に憧れたりしていた(それは無理なので既に諦めてますが)。
だから、場所や人によって揺れるようになった自分に対して否定的だったし、「本当の自分」がわからなくなっていた。

でも、分人主義という考え方や若林さんのエッセイを読んで、どれも本当の自分であって、違う顔があるのはダメなことではないんだと受け入れることが出来た。コミュニティごとに対人関係や環境が違うんだから、つくられる自分もまた違っていいのだと思えるようになった。そうやって自然と自分が出来上がっていくのだから、「本当の自分」にこだわらなくてもいいのだ。

だから「あの子と自分に対する話し方や態度が違う」からと言って、目の前のあの子が嘘、という訳ではないということ。それが意図的か無意識かは別として、どれも「本当の顔」なのだ。目上の人の前で聞き分けの良いように振る舞っている自分もまた、本当の自分なのだ。

そしてこれだ!という一つの「本当の顔」なんてものは存在しない。
皆分人を使い分けて生活していて、裏表のないと言われる人も使い分けているかもしれない、と考えると、前よりも生きやすくなったかな…と感じる。

色々考え方はあるので答えは一つではないけれど、私はこの考え方がしっくりきたので書いてみました。



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