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会えない理由を探すより、会う方法を考えたい


「後悔は先に立たない」
という言葉は小学生の頃に知って実感してからというもの、常に頭のどこかに置くようにしています。
ただ、それでも、生きていく中で後悔してしまう場面は付きもののようです。

先日、母の家のにゃんが空に旅立ちました。

こういうことを公の場に書き留めることにはすこしの躊躇いもありましたが、にゃんが教えてくれた気持ちと、ここ数日の気づきをわたしの中に残しておくことが、にゃんに対して最後にできることなのではないかと思い(そう願うことすら私のエゴですが)、書き留めます。


にゃんとの出会い

13年ほど前、当時家を離れていた私に「かわいい子がうちにきたよ」と弟妹から連絡が届きました。すこし時が経ってから車に乗って会いに行くと、リスのように車内を駆け回るにゃんに対面したのが最初の出会いでした。
元気で無邪気で可愛くて、それは10年以上経っても変わりませんでした。

誰かが食事をしていると耳を倒して目を細めながらも手を伸ばしてきたり、母が買ってきたパンを食べもしないのに漁ったりと、食い意地のはっているところも愛らしいものでした。

「これからの食事時間は平和なんだろうな」
「パンをブレッドケースに入れ忘れても、無事なんだろうな」
悩まされていたイタズラも、もうないと思うとお別れを再認識してしまい、恋しく思い返してしまいます。

どこか無責任だけど、確かに愛していた

にゃんは"母の家で生活する猫"のため、私が日々一緒に過ごしたり、日々のにゃん生活を支えてきたわけではありません。
母の家に行くたびに「今日もかわいいね」と撫でて癒されたり、母から写真が届くたび表情や心が緩んだり、思えば私はにゃんからは"もらうこと"ばかりでした。

昨年、母が倒れて入院したとき、にゃんの様子を見るために一週間ほど母の家と東京を行き来していたのですが、にゃんは母と会えないことにストレスを感じていました。
私はにゃんにとって母のいない時間を埋める存在にはなれないのだ、と実感した瞬間でした。

ただ、それは悲観的なものではなくて、一緒に住んで、一緒に毎日を過ごして、辛いときに寄り添い合う母とにゃんの関係性と、離れて暮らす私とにゃんとの関係性が異なるものであることは当たり前だと理解しています。
病めるときも健やかなるときも日々のにゃん生活を支える母に比べて、私の愛は、どこか無責任なものでした。

「会いたい」一心で、無我夢中に駆け抜けた夜

でも、だからこそ、
先日、あの夜、母から「今夜、かもしれない」と電話がきたときには『こんな私にできることはせめて、最後に会いに行って感謝を伝えることだ』と考えるより先に身体が動き出していました。

その日は台風並みに雨風の強い夜でした。
時間は日付を越えようとする頃。
電車で向かうことは難しい上に、バイクを走らせるには危険な気候でした。

天気予報を確認し、雨風が弱まるであろう夜明け前にバイクで出発しようと決意。スムーズに出発できるように、まずはしばらく乗っていなかったバイクの様子を見に行く。キーを回す。何も反応がありません。
すっかりバッテリーが上がってしまっていました。
どうしてこんなタイミングに。

「一緒に夜明け前に出発しよう」と電話をつないでいた弟に絶望を伝えながらも、「そうだ、車なら今からでも出発できる」とカーシェアの利用を思いつくには2分もかかりませんでした。

車ならば弟をピックアップして一緒に向かえる。
それに一刻も早く会いに行ける。

「え、でもお姉さん、運転できるの……?」
とペーパードライバーの私に心配そうな声をかける弟の不安感にも呼応せず、カーシェアの予約を進めました。

はじめての長距離ドライブ。
ヒーリングミュージックを流し、できる限り平静を保ちながら、弟のピックアップとあわせて4時間ほど走る、走る。
母の最初の電話からかなり時間が経過してしまいました。

心拍数があがるのを感じながら母の家に辿り着くと、リビングの中央に、母が寄り添う傍でにゃんは横になっていました。

命の最期

結果、最後ににゃんに会うことができました。
まるで私と弟を待ってくれていたかのように、到着して10分足らずで旅立っていきました。

思えば、大事な家族の最期のときを一緒に過ごすことができたのは、これがはじめてのことでした。
これまでも大好きなにゃんやわんこが旅立っていきましたが、最期のときを見届けることはありませんでした。

このような表現をすると、少し距離をおいたような、ドライな感情に聴こえてしまうかもしれませんが、生命が飛び立つ瞬間というものに触れて、はじめて死というものがなにか、を体感したように思います。

ただ、「死」というものがなにかを理解したものの、にゃんが旅立った事実は受け入れがたく、いまもまた母の家にいけば会えるのではないかと考えてしまうほど、実感はしていないのですが。

先日旅立ったにゃんは、生前、何度も病を闘い抜いてきました。
ちいさな身体でも力強く生きていく様子にはいつも勇気づけられていましたし、お別れはずっと先のことだろう、そうであって欲しい、と願い続けてきました。

だから、お別れはあまりに辛いものでしたし、その事実を受け入れる日はまだ先でしょうし、いまだに心のどこかが欠けているような感覚があります。
ただ、母によると、直前に行った病院での数値は快復傾向にあったとのことで、きっとたくさん闘い抜く中でも、母やほかのにゃんとの時間を思い切り楽しんで、最期は穏やかに眠っていったのだろうと思います。
そう思える最期の瞬間でした。

にゃんのことは大好きでしたし、今もこれからもずっと大好きです。
だからこそ、最期に会えたことが、私の心を前向きにさせてくれました。

きっとあの日、バイクを諦めて始発電車を待っていたらもちろんのこと、夜明け前まで待ってバイクで向かっていても、最期に会えていなかったかもしれない。
そうしたら、そのときには、後悔の念に打ちひしがられ、苦しくてやるせなくて、誰も幸せにしない自責の念に駆られて、ただただしばらく心が虚になっていたでしょう。

そうならなかったのは、「会いたい」「会って感謝を伝えたい」の一心で動いたことと、なによりも待ってくれていたにゃんのおかげです。

会えない理由を考えるよりも、会いにいく方法だけを考えて、よかった。

会いたいときは、会えない理由なんて考えるな

日常の話でも、何か少しでも懸念があると、「できない理由」を考えだしてしまったり、考える時間があるとリスクを考えだして行動から遠ざかってしまうこと、ありませんか。
私はおそらく人一倍「失敗すること」を恐れる性格のため、この傾向が強くあります。そして、今まで何度も行動をしないことで後悔をしてきました。

ここ数年でしょうか。
”「できない理由」を考える暇があったら、まずはやってみよう。やりながら、問題が出てきたら都度解決していけばいいでしょ”
と考えて、行動するようになったのは。

今回の「会いたい」についても同じでした。
そのとき会いにいけない理由はいくらでも挙げられました。

  • あまりの悪天候で、バイクでは今は出発できない。

  • 天候が落ち着くのを待って出発したら、間に合わないかもしれない。

  • 始発電車に乗っても到着するのは9:00前だ。間に合わないかもしれない。

  • バイクのバッテリーがあがっていて足がない。

  • 長距離走ったことがない。車の運転は危ないかもしれない。

  • この精神状況で車運転するのは危ないかもしれない。

  • 道に迷うかもしれない。そしたら間に合わないかもしれない。

いま挙げてみるとパッと出してもこれだけの「会いにいけない理由」がありますが、その日は一切考えないよう、頭に浮かびかけても目を背けるようにしていました。ひとつ「会いにいけない理由」を考え出すと、行動しようとする気持ちが止まってしまうことがわかっていたからです。

結果として、無我夢中に走って向かったことで、最期に会うことができました。

いつかくるお別れより、いま確実にある想いを大切に

冒頭に書いたように、どんなに意識をしたって「後悔はしてしまう」ものなんです。だから最初から「悔いのないように」とは考えたくないのです。

私は基本的に、人とも動物ともお別れを考えて付き合うことはしないようにしています。お別れの時を見据えて悔いのないように思い出をつくっていくの(ある種、カウントダウンのような感覚)ではなく、相手とのいまの時間を大事に積み重ねていくこと(ある種、カウントアップのような感覚)を大事にしています。

それでも、人でも動物でも、生命には終わりがあって、いつかお別れのときがきます。それは抗えない事実です。
自身の生涯だってそうです。自分自身の人生にも限りがあって、どこかで自分の人生とのお別れが訪れます。
もちろん、生命の終わりだけがお別れの理由でありません。人や動物とのお別れの理由はほかにもありえます。

でも、そんな日はいつくるかわかりません。
何十年後かもしれませんし、明日かもしれません。

いつ訪れるかわからないものに怯えるくらいなら、いま確実にあるその時その時の想いに背を向けずに、「楽しい」「幸せ」などのプラスの思い出をたくさんたくさん積み重ねていきたいものです。

だから、提案です。
「会いたい」と思ったら、まずは「会いにいく方法」を考えましょう。
私も私自身に、これをずっと言い続けていきます。


数日、考えたことがあふれすぎていて、バラバラな思考noteになってしまいました。
考えが枝葉に分かれて混乱していて、でもそれをアウトプットしていくことですこしずつ整理していく。きっとこれがいまの私の頭の中の状態なのでしょう。
ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございます。

そして、いつかこれを読み返した私へ。
整理よろしく。


最後に。
にゃんと会えて、本当によかったです。
いつもたくさんの愛をありがとう。
これからもずっとずっと大好きです。
おやすみなさい。


2024.06.02
松井花音


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