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自分にできることと評価されること

 自分にできることをしたら、評価されることは手放したらいいのではないかと思う。

 例えば、ガーベラ。蕾の時は冴えない。筆の先のようでいて、花びらの一枚一枚がそれなりの大きさがあるから、繊細でもない。円盤のように開ききっている時が一番きれいだと思うのではないだろうか。

 対して、チューリップ。蕾がほころび開きかけの時がふくよかで一番愛らしい。花びらが開ききるとだらしない印象を持つのではないだろうか。チューリップの花びらは縦に細長く薄いから、垂れ下がるとだらしなさが強調される。

 そして、桜。蕾の時から散りゆく時まで、いつの時でも愛でられる。堅い蕾の時でも、春はもうすぐと待ちわびられ、薄紅の膨らんだ蕾に可憐さを感じ、満開の花の壮麗さに圧倒され、散りゆく様に儚さを見る。

 でも、これら評価は見ているわたしの、つまり人間の物差しによるものであって、花には関係ない。花からすれば、蕾のまま力尽きず、開ききって受粉でき、散るのが望ましいはず。

 ガーベラもチューリップも桜も、その花ごとに精一杯咲いて散る。その花らしく咲いて散るまでが花のできること。それをどう評価するかは、見ている側の都合に過ぎない。

 始末のしやすさからいえば、ガーベラが一番楽だ。花全体がしおれて、それから花びらが散りやすくなる。散る前に片づけやすい花だ。チューリップは花びらがパラパラ落ちるが、花びら一枚一枚が大きいから拾いやすい。桜は散ると辺り一面に広がる。掃除嫌いの方には迷惑な花だろう。

 咲き方や散り方に良い、悪いというのは、外野の無責任な主観から生まれるもの。その時々、見る側の視点によって変わってしまう。周囲の評価に委ねていたら、花を開ききることなんて怖くてできない。結局は開いても開ききらなくても評価は分かれ、好きにいわれる。蕾のまま萎れたって、憐れんでなんてもらえない。

 咲き方も散り方もその花の特徴だ。その花のできることをしたらいい。

 人も同じ。

 それ以外の咲き方も散り方も選べないのだから。

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