コミュニケーション戦闘力



 メッセージのやりとりが苦手だ。メールや手紙、SNSなどは考えるだけで胃が痛くなる。

 私はそもそも、生身の人間との会話すら必要以上に緊張するのだ。他人と顔を合わせ、目を合わせるのでさえ緊張する。声を掛けるとき、その人の顔色、挙動、状況を鑑みて、どのような言葉を、どのような調子で発するか。そんなことを考えるだけで、私のもやしなメンタルが動悸息切れを訴えてくる。

 だから、メール、手紙、SNSなどのツールは、私にとってもはやコミュニケーションの暴力である。面と向かっての会話よりも、なお負担が大きい。なにせ、これまで入ってきていた相手の情報が大幅カットされるのだ。顔色、挙動、前後の文脈が無い状況でコミュニケーションを取るなんて、博打でしかない。

 これらのコミュニケーションツールを武力にたとえるなら、メールがミサイル、手紙が吹き矢、TwitterやInstagramなどは様々な銃器をそなえた軍隊、LINEはスパイである。

 メールは、毎日気軽に大量の情報を送ってくる。仕事のこと、バーゲンセールのこと、友人の結婚。何でも乗せてくる。

 手紙は使用頻度が低く、古風であるが、さらりと重要な情報が書かれていることもあって、まともに見ないと痛い目を見る。

 SNSは言うまでもない。あれは情報と感情の大嵐だ。

 LINEは他のツールと性質が少々異なる。基本的にはメールと変わりないのだが、時と場合によって手紙のような重要な情報をもたらし、またTwitterやInstagramのように情報のマシンガンをかましてくる。さらにコイツのすごいところは、「相手がいつ自分のことを見たか」などこちらの挙動を把握してくるところである。SNS界のジェームズ・ボンドと呼んでも過言ではないだろう。

 こちらの意思、状況に関わりなく、毎日他人の思想がばんばん飛び込んでくる日々。コミュニケーション力が爪楊枝程度しかない私が立ち向かうには、かなり厳しい。

 どうなるのか。決まっている。

 私が淘汰されるしかない。社会は、「未来」の発展を掲げる人間のために、どんどんアップデートされていくのだ。生き残ることができるのは変化に耐えられるものだけだというようなことを、ダーウィンも言っていた気がする。努力をする者だけは守るよって、日本国憲法も言っていた気がする。

 どう取り繕っても、コミュニケーションの非力さはバレる。今にこのぐんぐん発達する高度な情報戦争社会から淘汰されるのだ。そうされて然るべき人間なのだから仕方ない。いつの日かコミュニケーションツールを使いこなせない野蛮人として、社会で私のイメージが定着し、それを問題に思った人々が私の家の前まで大挙して「コミュニケーション野蛮人は出て行けー!」「高い文明水準を保てー!」「怠慢な人間を許すなー!」と口々に叫ぶのだ。

 そんな妄想に浸りながら、私は今日も既読スルーをする。


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