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映画とゲームの狭間で

*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、ビジョンクリエーター生成

 映画は操作出来ない。視覚と聴覚を通した受動的疑似体験の映画は、その受動性を超えるには見る側に要求する部分が多い。その一方、仮想構築された世界を操作するビデオゲームはその間口が広い上、作品の質が高ければ高いほどプレー体験の質も上がる。

 マシンパワーの足りない過去の機器で展開された作品は、描画能力の低さ故に、ドット絵やポリゴンの描写をプレーヤーが解釈して脳内補完するコミットメントが発生することも相まって、一定の領域を受け手に委ねることが出来た。そしてリアルタイムレンダリングとプリレンダリングの使い分けによるゲームプレーとカットシーンという構成が確立する。そのカットシーンが映画を模倣することは必然であり、PS2が全盛を誇る2000年代前半までには演出・構成がほぼ定式化されたと言える。ただ、機器の性能と作り手の力量と開発費という複雑な要因の中では、演出・構成が限定的となり、映画を志向する殆どの作品は、歌舞伎の型とでも言うべき誇張された大袈裟な演出に頼らざるを得ない。従って映画が描き出す機微を通した芸術性にまで至る作品は乏しく、映画とビデオゲームいう観点から期待されるナラティブとゲームプレーの融合は、この段階では実現する作品が極めて少ない。

 しかしマシンパワーの向上と共に3Dモデルの描画力が上昇し、一定の人物描写が可能になったPS3/XBOX360世代になると、ビデオゲームの様相は次の段階へ突入する。多くの作品がプリレンダリングムービーの挿入から全編リアルタイムレンダリングに移行し始める。そしてその演出・構成が映画に接近するればするほど、ビデオゲームはそれらの手法が熟れていないぎこちなさを呈するのみならず、ビデオゲームの文法則と演出・編集がうまく咬み合わない拙さを晒してきた。

 ビデオゲーム的視点で言うと「リニア」であったり「お使い」や「作業」或いは「ムービーゲー」等々、不名誉な代名詞はその退屈さを見事に言い表している。また映画的視点で見ると、演出・構成の手法が平凡なアニメ的水準を超えないものが殆どであるにもかかわらず、人物の造形だけが精巧になっていく歪さが目立つようになる。これらはまるで拙い舞台演劇のようである。マシンスペックの限界を考慮し、ナラティブとゲームプレーの融合に様々な工夫を施すことで人々の記憶に残る作品は幾つか存在するが、この段階においても、その数は極めて少ないと言える。

 そのような中で2007年ホリデーシーズンに登場した、アメリカのInfinity Ward が手がける“Call of Duty 4: Modern Warfare”がFPS(一人称視点シューティング)のジャンルを刷新する。それまで対戦が主眼でキャンペーンモードなどお飾りでしかなかったFPSにおいて、CoD4は現代戦の特殊部隊が従事する任務を主軸に据え、複数の視点から核をめぐる追跡劇として展開する筋書きや演出が、飛躍的に向上した環境描写によって構築される。

 このCoD4を境に、FPSの作り方がCoD4の方法論を基準とするようになった、と言っても過言ではない。この方法論を踏襲しなくとも、どう違うのか比較する参照基準としてCoD4は君臨する。競合タイトルの“BATTLEFIELD”シリーズも、当初は箱庭型の“BAD COMPANY”シリーズを継続したが、ついに2011年の正式続編ナンバリングタイトル“BATTLEFIELD3”でこの方法論を踏襲する。

 FPSは没入型疑似体験を提供するインターフェースの特性上、映像演出の文法則が映画とは異なるが、映画の主人公であるかのように見ている没入型疑似体験として、環境描写の劇的向上による視覚体験は特筆に値する。そして、この先これ以上のインパクトを与える革新は、ヘッドマウントディスプレイによるVR体験よりも、VRを知覚認識に注入するインターフェースの登場を待つしかないだろう。その段階において、ビデオゲームにおけるFPSとVRの境目はあやふやになり、シューティングゲームとコンバットシミュレータの差異は建前程度の些細なものとなるだろう。

 選択肢分岐型ADV(アドヴェンチャー)では、フランスのQuantic Dreamが手がける“Heavy Rain”が2010年に登場する。2005年にPS2終盤で発売された“Fahrenheit”でその祖型を体現し、PS3のマシンパワーで再現されたナラティブとゲームプレーの融合は、厄介物であるQTE(Quick Time Event)をゲームシステムの主幹にしてしまうことで、その奇襲的演出によって不評を買う要素を転換し、ゲームとして成立させる。しかし、主要人物数人の造形はPS3において目を見張るものがある一方、それ以外の人物造形が格段に劣るという映像的不均衡が如実に表れている。更に、選択肢の提示がカメラワークに連動しておらず、非常に認識しにくい部分がある。また、それぞれのエピソードで描かれる人物描写が、その時点で選択する行動に依存することで、前後の選択肢に纏わる演出と馴染まない描写になるという微妙な統一性の破綻を来す。この問題は「部分の総和が全体ではない」ということを如実に表しており、後の“Beyond: Two Souls”(2013年)や“Detroit: Become Human”(2018年)まで継承されている。

 映画とビデオゲームの関係性が最も良く現れるTPS(三人称視点シューティング)やアクションでは、TPSにおいて、マンネリ化した「バイオハザード」シリーズのサバイバルホラーを正統に進化させた“DEAD SPACE”(2008年)が登場する。アメリカの開発スタジオEA Redwood Shores(後のVisceral Games)が手がけたこの作品は、生物汚染と「モノリス」「惑星ソラリス」の要素を巧みに織り込み、海外の作品にありふれた不親切なゲーム設計とは一線を画す非常に手の込んだインターフェースデザインも相まって、重厚な体験を提供する。この作品は、映画的演出という観点からはカットシーンの挿入がほとんど無いのだが、錬られたインターフェースを通して成される演出が有効に機能している。

 アクションの分野では、アメリカのNaughty Dogが開発し2007年に発売された“Uncharted: Drake’s Fortune”が、一作目にしてほぼ完成した雛型を提示する。『インディ・ジョーンズ』シリーズに代表されるハリウッドのB級冒険アクション映画を徹底的に研究して創られたこの作品は、まさにシネマッティックゲームと言い表すに相応しい。既存の映画的演出を目指したビデオゲームが、悉くカットシーンとゲームプレーの分離に直面して来たのだが、“Uncharted”は流れるような映像演出とゲームプレーの融合が成されている。そして特筆すべきは、映像における登場人物や環境描写の造形レベルが統一されている点だ。主要人物と脇役、或いはその辺に転がっている石など、通常は造形レベルに明白な落差が出るものだが、Naughty Dogは造形物のデフォルメーションに統一性を持たせることで映像の破綻を回避する。

 もっとも、ゲームプレーは極めて凡庸であり、ゲーム性のみを見た場合はとても評価出来る代物ではないという欠点も、続編の“Uncharted: Among Thieves”(2009年)では改善されて最低限を満たしている。そしてこの手法をB級アクション劇からシリアスな近未来SFパンデミックに応用し、“The Last of Us”(2013年)は成功を収める。その後は順調な“Uncharted”シリーズの続編消化を経て、シネマティックゲームの到達点とも言える“The Last of Us Part II”(2020年)へと手法が昇華される。

 以上のように、ナラティブとゲームプレーの融合という観点で捉えた場合、PS3/XBOX360世代に入ってから目覚ましい変化が起きているビデオゲームの分野だが、その革新の殆どがヨーロッパ・北米で起きている。それまで黄金時代を築いた日本のビデオゲームは後塵を拝し、取り残されている感がある。かつてドット絵が主流の二次元で展開されたビデオゲームの土俵が三次元に拡張され、モーションキャプチャーやフェイシャルキャプチャーの技術によって俳優が登場人物を演じる段階になると、映画的技法とビデオゲーム的演出の融合に取り組むか否かが焦眉の課題となる。

 しかし、そういった観点から見て日本のビデオゲームは芳しくない。アメリカのハリウッドやヨーロッパ各地の映画祭を下支えする映像文化の基盤が与える影響は非常に大きなものがあるとみられるが、その彼我の落差を考えるに、根本的な部分で、日本では未だに「ゲームは子どもの玩具」でしかないのだろう。筆者の分析する限りでは、日本のビデオゲームはZ指定(18禁)を受けたところで、実質は15歳前後の子どもが理解出来るように想定して制作されていると言える。Z指定を受けているにもかかわらず内容が改変される海外の作品、という珍妙さを考えれば、推して知るべしである。そして意識的にしろ無意識的にしろ、15歳前後の理解力を基準として設定してしまうが故に、様々な影響が作品に影を落とす。

 派手な流血描写を削除することでテクスチャを張る前の歪な血の塊が蠢き、見ているだけのカットシーンに登場する大したことのない濡れ場すら削除され、何と言っても登場人物の話す速度が遅くなり、翻訳の情報量が削られる。“The Last of Us Part II”日本語版が呈した諸々の問題は、こういった要素の実例集として扱うことが出来る。

 残念ながら、“The Last of Us Part II”が到達点を提示した現在、同じ方向性を志向する日本のビデオゲームは総じて一定の芸術性に及ばない。日本のビデオゲームで成功している作品は「引き算の美学」が貫徹されているものである。物語の演出を極力排し、限られた情報を元にしてプレーヤーが能動的に探索し、作品の世界を体感するという構図は、映画的演出とは真逆の発想である。しかしコミットメントを促し一定の領域をプレーヤーに委ねる手法は、かつての二次元、或いは低レベルの三次元において全盛を誇った日本のビデオゲームが連なる系譜そのものと言えよう。

 そして何よりも、物語を提示する上で影響を受ける思想的背景を考えると、西洋哲学の系譜が抱えるボトルネックに囚われる必要など無く、日本語圏の文化的背景が蓄積する材料は揃っているのである。後は、その有利点を活かすか否かである。

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